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高齢化進む語り部 「あと何年」継続に不安 袋井西小で防災の日【語り継ぐ 東南海地震⑥】

 1944年の昭和東南海地震で児童20人が校舎倒壊などにより死亡した袋井市の袋井西小(旧袋井町西国民学校)で、地震発生日に合わせ昨年12月7日、5年生約90人が当時の在校生から体験談を聞く恒例行事「西小防災の日」が開かれた。かつて20人以上いた語り部は6人まで減り、84~89歳と高齢化が進んだ。「元気なうちは続けたいが、あと何年できるか」と今後の継続に不安を感じている。

国民学校5年生だった当時の被災体験を現在の小学5年生に語る木野晃さん(左)=昨年12月7日、袋井市の袋井西小
国民学校5年生だった当時の被災体験を現在の小学5年生に語る木野晃さん(左)=昨年12月7日、袋井市の袋井西小
語り部の体験談に真剣に耳を傾ける児童=昨年12月7日、袋井市の袋井西小(写真の一部を加工しています)
語り部の体験談に真剣に耳を傾ける児童=昨年12月7日、袋井市の袋井西小(写真の一部を加工しています)
国民学校5年生だった当時の被災体験を現在の小学5年生に語る木野晃さん(左)=昨年12月7日、袋井市の袋井西小
語り部の体験談に真剣に耳を傾ける児童=昨年12月7日、袋井市の袋井西小(写真の一部を加工しています)

 「亡くなった児童も皆さんと同じように、友達と勉強したり遊んだりしていました。突然、地震に命を奪われてしまったのです」
 地震発生時刻に合わせて午後1時半ごろ、大場伸一校長が校内放送で犠牲者20人の名前を読み上げ、全校児童と黙とうをささげた。語り部は2人ずつ5年生の3クラスに分かれ、地震発生時の教室内の様子などを語った。
 「突然大きな地震が来て、先生は『机の下に潜れ』と叫んだ。校舎が揺さぶられ、机はみんな教室の端に寄ってしまった。とにかく必死で、誰のか分からない机の下に潜った」
 当時5年生だった鈴木忠雄さん(88)と2年生だった筒井昭さん(86)は、体験者ならではの生々しい語り口で、パニック状態に陥ったクラスの状況を振り返った。
 児童は真剣に耳を傾け、質疑応答になると活発に手を挙げて質問した。ただ、語り部が質問をはっきり聞き取れず「もっと大きな声で」と聞き返す場面なども見られた。
 語り部の一人、木野晃さん(89)は「私たちも耳が遠くなったりし、いつまで続けられるか分からない。今後語り部が減れば、今のように3クラスに分かれて行うのは難しいかもしれない」と話す。
 3クラスの生徒を体育館などに集めて行えば、語り部との距離が離れ、互いに声が聞き取りにくくなる可能性もある。西小防災の日は来年度も開催を目指す方向で、語り部と話し合って実施方法を検討していく予定。

「生きるか死ぬかの瀬戸際で混乱」 児童と語り部の質疑応答

 「西小防災の日」で、児童と語り部が行った質疑応答の一部を紹介する。
 Q 避難する時、どんな気持ちだったか。
 A 地震というものを知らず、何が起きたか分からなかった。空襲が起きたか、爆弾が落ちたのかと思った。
 A 先生も地震の経験が乏しく、判断が難しかったと思う。私たちも生きるか死ぬかの瀬戸際で、どうしていいか分からず混乱した。倒壊校舎の下敷きになった子は早く救助してもらえるよう、自分の居場所を知らせるため歌を歌ったりした。
 Q 地震直後の街はどんな様子だったか。
 A (旧袋井町の)東海道沿いの家の多くがぺちゃんこにつぶれ、無事な家は少なかった。夜に寝る所がなくなり、みんなが困った。たまたま私の家は倒れず、近所の人たちが泊まりに来た。
 Q 被災後の生活で困ったことは何か。
 A 食べるものが少なく、校庭を半分ほど耕してイモを植えた。つぶれた校舎の跡を片付けてトマトの苗も植えた。そういうものを食べて生き延びた。
 Q 普通の生活に戻るまで要した期間は。
 A はっきり覚えていないが、何カ月もかかった。学校は翌月再開したが(校舎の大部分が被災して)教室が足りず、午前中は低学年、午後は高学年などの2部制で勉強した。

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