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浜松・湖西の軍需工場に壊滅的被害 太平洋戦争末期の希少写真㊦【語り継ぐ 東南海地震⑤】

東南海地震で大規模に倒壊したのこぎり屋根の軍需工場=現在の浜松市南区高塚町(エンシュウ提供)
東南海地震で大規模に倒壊したのこぎり屋根の軍需工場=現在の浜松市南区高塚町(エンシュウ提供)
倒壊した工場を取り壊し、製造品の工作機械を回収する工兵隊員ら=現在の浜松市南区高塚町(エンシュウ提供)
倒壊した工場を取り壊し、製造品の工作機械を回収する工兵隊員ら=現在の浜松市南区高塚町(エンシュウ提供)
東南海地震で大規模に倒壊したのこぎり屋根の軍需工場=現在の浜松市南区高塚町(エンシュウ提供)
倒壊した工場を取り壊し、製造品の工作機械を回収する工兵隊員ら=現在の浜松市南区高塚町(エンシュウ提供)

 ■青島さん(磐田南高 非常勤講師)調査 金属資材供出 強度低下招く
 1944年12月7日、マグニチュード(M)7・9の規模で発生した昭和東南海地震は、中東遠地域の広い範囲で民家や学校を倒壊させ、浜松、湖西両市では多数の軍需工場に壊滅的被害をもたらした。太平洋戦争で米軍の浜松空襲が本格化する直前に、皮肉にも自然災害が日本に甚大なダメージを与えた。
 当時は戦時下で報道管制が敷かれ、被害実態は不明確な部分が多い。2017年、磐田南高教諭だった青島晃さん(68)=現同校非常勤講師=は県西部の公立図書館に保管された文献を基に、現在の浜松、湖西両市の軍需工場被害を調査した。
  photo02 軍需工場が甚大な被害を受けた原因を推察する青島晃さん=10月下旬、磐田南高
 地震当時の浜松署の報告書などから、59工場で計236棟が全半壊し、死者45人、重軽傷232人の被害が生じていたと推定。被害状況から両市内の震度は現在の基準で5弱~6強に相当したとみる。両市の死者約60人のうち7割超が軍需工場での犠牲者で、「極めて多い」と指摘する。
 被災した企業の一つ「遠州機械」(現エンシュウ、浜松市南区高塚町)では建屋の大半の13棟が全半壊し、出勤者千人以上のうち3人が死亡、26人が負傷した(「エンシュウ100年史」より)。
 同社は1920年、織機製造会社として創業。日中戦争が勃発した37年ごろに国から兵器生産の命令を受け、44年に軍需会社に指定された。米国などが日本への工作機械の輸出を禁止し、国内生産が不可避となったためだ。同社は刃物を回転させて金属を切削する「フライス盤」などの生産に力を注いだ。
  photo02 のこぎり屋根の工場(イメージ)
 同社の工場はその当時、紡績工場などによく見られた「のこぎり屋根」の建屋。日光を屋内に安定的に採り入れられるよう東西に延び、斜め形の屋根が連なるため、横から見ると、のこぎりの刃のようなギザギザの形をしていた。
 昭和東南海地震では、木造で細長いのこぎり屋根の工場が激しく倒壊した。71年に浜松商工会議所が発刊した「遠州機械金属工業発展史」によると、被災当時の同社役員は「工場の天井に動力を伝達するシャフトが通っていて上部が重かった」ことなどが原因で連鎖的に倒壊したと推測している。当時の鉄鋼不足により、軍の要請で工場の柱や棟を組む補強用鉄材が撤去された点も一因に挙げた。
 このほか浜松市内では、小糸航器工業浜松工場(現在の中区森田町)、日東航空浜松製作所(同町)、中島飛行機宮竹工場(同・東区宮竹町)、日本楽器天竜工場(同・南区飯田町)など各地の工場が被災した。軍需工場で被害が多発した原因として、青島さんは(1)戦時下での金属資材の供出や不足などによる建築構造上の強度低下(2)工場が立地する軟弱地盤による地震動の増幅-を挙げる。
 被災工場の操業を早急に再開させるため、軍人や地元学生、東京や神奈川から派遣された大工が全力で復旧に当たった。青島さんは「何より軍需品生産が最優先される状況だった」との見方を示す。

 東南海地震体験 証言募集 静岡新聞社は昭和東南海地震を体験した方の証言を募集しています。中東遠地域のほか、被害が大きかった静岡市清水区の住宅倒壊や、浜松市での軍需工場被災、下田市での津波浸水などを体験した方は、ぜひ証言をお寄せください。改めて取材をさせてもらう場合もあります。
 お住まいの市町名、氏名またはペンネーム、年齢、連絡先を明記し、〒422-8670(住所不要) 静岡新聞社編集局「語り継ぐ東南海地震」係<ファクス054(284)9348>、<Eメールshakaibu@shizuokaonline.com>にお送りください。

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