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「浜堤」減災に一定効果 伊東の津波被害から学ぶ【伝える 関東大震災100年と静岡③】

 伊東市中心部を流れる伊東大川(松川)右岸の玖須美地区。「ここは伊東の中でも津波による死者や家屋の流失が一番多く、壊滅的だった」。8月上旬、伊東港に面し住宅が密集する地区内を歩きながら、市文化財管理センターの主任学芸員金子浩之さん(63)が当時の被害状況を説明した。

津波で壊滅的な被害を受けた伊東市玖須美の様子を収めた写真(県立中央図書館蔵「大正十二年静岡県被害状況写真帳」から」)
津波で壊滅的な被害を受けた伊東市玖須美の様子を収めた写真(県立中央図書館蔵「大正十二年静岡県被害状況写真帳」から」)
関東大震災で5メートルの津波が押し寄せた宇佐美地区。金子浩之さんは「8メートルの浜堤が一定の被害低減になった」と話す=8月上旬、伊東市
関東大震災で5メートルの津波が押し寄せた宇佐美地区。金子浩之さんは「8メートルの浜堤が一定の被害低減になった」と話す=8月上旬、伊東市
津波で壊滅的な被害を受けた伊東市玖須美の様子を収めた写真(県立中央図書館蔵「大正十二年静岡県被害状況写真帳」から」)
関東大震災で5メートルの津波が押し寄せた宇佐美地区。金子浩之さんは「8メートルの浜堤が一定の被害低減になった」と話す=8月上旬、伊東市

 津波に押し流された家屋のがれきや、川を遡上(そじょう)した津波で橋の欄干に乗り上げた漁船。玖須美地区を含む旧伊東町の惨状が同センターや県立中央図書館所蔵の写真に生々しく残る。市によると、旧伊東町の犠牲者84人のうち、37人は玖須美地区。流された家屋も361戸のうち204戸と、突出していた。しかし、玖須美の住民が迅速な避難行動を取らなかったわけではない。
 東北大災害科学国際研究所の今村文彦教授(津波工学)による関東大震災の最新の津波シミュレーションで、伊東では第1波のピークが8~10分で到達し、津波高は4メートルを超えたとみられることが分かった。「ピークの到達が早く、第1波から大規模な津波だった」と今村教授は特徴を挙げ、「この結果によると、避難の時間が十分とは言えない状況だった」と指摘する。
 25年ほど前から市内の津波堆積物を調査している金子さんは、地形的な特徴も被害拡大の要因の一つとみる。海岸沿いは、海から打ち上げられた砂が風で巻き上げられ、陸地側に堆積する「浜堤(ひんてい)」ができる。海岸に平行してできる浜堤は発達すれば自然の防潮堤の役割を果たすという。現在は浜堤の上にも住宅などが建てられている。
 特に被害が大きかった玖須美地区は風の強さや向きの影響で浜堤が3メートルと未発達だった。一方で、犠牲者がゼロだった宇佐美は浜堤が7~8メートルあるとみられる。金子さんは「関東大震災では被害の軽減に一定の効果があった」とする。ただ、元禄地震(1703年)では10メートル以上の津波が襲ったため犠牲者が増えた。今村教授は「津波対策はハードとソフトの組み合わせとそのバランスがやはり重要だ」と呼びかける。
 明治時代の伊東の地図を見ると、玖須美の集落は内陸側にあった。金子さんは「災害に遭いやすい場所に集落をつくってはいけないと当時の人は理解していたのだろう」と推測する。しかし、大正にかけての近代化や人口増加で集落は低地の海側へと広がった。関東大震災後も沿岸部を中心に伊東だけでなく、各地でまちが形成されていった。
 津波対策と同時に「もっと根本的な解決が必要」と金子さんは訴える。「沿岸から離れ、安全な内陸に居住区域や重要施設を誘導していくような都市計画を真剣に議論する時が来ているのではないか」

 <メモ>関東大震災で伊東市内は震度5強~6強の揺れがあったとみられる。市によると、全域での死者・行方不明者数は87人。建物被害は、津波による流失と全半壊を合わせて1439戸だった。1703年の元禄地震はマグニチュード(M)8.1~8.2。津波は現在の伊豆急行南伊東駅付近まで到達したとされ、津波高は5.5~17.5メートルと推定されている。

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