テーマ : 防災対策

崩落の歴史変わらず 熱海・伊豆山に残る慰霊碑 【伝える 関東大震災100年と静岡④】

 青々とした海面が眼下に広がる熱海市伊豆山。国道135号を小田原方面に進むと、右手の道路沿いに石碑が現れる。雑木に覆われ、正面部分が大きく剥落し、風雪にさらされてきたことをうかがわせる。

被災直後の伊豆山の状況(静岡県立中央図書館蔵「大正十二年静岡県被害状況写真帳」から)
被災直後の伊豆山の状況(静岡県立中央図書館蔵「大正十二年静岡県被害状況写真帳」から)
関東大震災による土砂崩れで犠牲になった人々の慰霊碑を見つめる中田剛充さん=10日、熱海市伊豆山
関東大震災による土砂崩れで犠牲になった人々の慰霊碑を見つめる中田剛充さん=10日、熱海市伊豆山
被災直後の伊豆山の状況(静岡県立中央図書館蔵「大正十二年静岡県被害状況写真帳」から)
関東大震災による土砂崩れで犠牲になった人々の慰霊碑を見つめる中田剛充さん=10日、熱海市伊豆山

 万霊塔。1923年の関東大震災当時、現地には蒸気機関車の軽便鉄道(小田原-熱海間)が通っていた。土砂崩れが発生し、道路や鉄道工事関係者7人が犠牲になったとされる。碑は慰霊のために建てられた。25年には東海道線が熱海駅まで開通し、軽便鉄道はそのまま廃線となった。
 「線路は海まで押し流され、犠牲者の中に身内がいたと義母から聞いた」。伊豆山の中田春子さん(78)は振り返る。義母が他界する25年ほど前まで毎年、供え物をしたり、掃除をしたりしていたが、碑を知る人も少なくなり、次第に足が遠のいたという。石碑の裏面には、確かに「中田」の名前が刻まれていた。
 急峻(きゅうしゅん)な地形の伊豆山は、山腹から湧いた湯が海まで走るように流れたとの言い伝えが残る。日本三大古泉の一つ「走り湯」の由来になっている。2021年7月、違法に造成した盛り土が崩落し、28人が亡くなる大規模土石流が発生した。関東大震災時と発生原因は異なるが、土砂が一気に流れ下る地形は1世紀を経ても変わっていない。
 一方で、急斜面には民家や別荘、保養所などが立ち並ぶ。市のハザードマップで、大半が急傾斜地の崩落(崖崩れ)や土石流の警戒区域、特別警戒区域に指定されている。
 大震災の被害を検証する地元の中田剛充さん(81)は「伊豆山はどこでも土砂災害に遭うリスクがある。そういう地域に住んでいることを忘れてはならない」と警鐘を鳴らす。長年、町内会長を務めたが、盛り土が違法に造成されていたことを見抜けなかった。「じくじたる思い」があり、災害を繰り返してはいけないとの願いは強い。
 熱海市によると、関東大震災の市内の死者・行方不明者は92人に上った。多くは津波被害だったとみられる。1924年の「静岡県大正震災誌」には、「初震より約十分にして前後二回津浪(なみ)の襲来あり」「一瞬にして親を失ひ、妻に別れ、家財を失へるもの幾何(いくばく)なるやを知らず」などと記録されている。風光明媚(めいび)で、観光客らでにぎわうリゾート地とは全く別の顔もあることを今に伝える。

 <メモ>熱海市伊豆山では住民の救助活動中に警察官1人が殉職した。相羽清重巡査(享年37)。県警察史などによると、相羽巡査は疾病調査の応援のため伊豆山を訪れた際、大震災に遭った。住民の避難誘導や負傷者の搬送に奔走中、倒壊した伊豆山神社の石鳥居の破片が頭に当たって亡くなったとされる。地元住民や熱海署の歴代署長らが尽力し、2018年8月、神社参道に顕彰碑を建立した。磐田市内に住む相羽巡査の孫も出席して毎年、慰霊祭を行っている。

いい茶0

防災対策の記事一覧

他の追っかけを読む
地域再生大賞