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1800人の避難所、細る福祉「専門職を早期に」 岩手の窮状、派遣チームの教訓に【つなぐ災害福祉 東日本大震災13年㊤】  

 2011年3月11日に発生した東日本大震災で死者・行方不明者が1800人を超え、岩手県内でも最も被害が大きかった陸前高田市。16メートルの大津波に市街地のほとんどがのみ込まれ、甚大な被害となった。高台にあった市立第一中は津波被害を免れたが、落成したばかりの体育館は沿岸部からの避難者で埋め尽くされた。3月末には避難者は約1800人に膨れ上がり、県内最大となっていた。

発災から約2カ月が経過した陸前高田第一中避難所の福祉支援室。千葉正道さんら福祉関係者のつてでベッドが導入された=2011年5月、岩手県陸前高田市(同県社協提供)
発災から約2カ月が経過した陸前高田第一中避難所の福祉支援室。千葉正道さんら福祉関係者のつてでベッドが導入された=2011年5月、岩手県陸前高田市(同県社協提供)
岩手DWATの創設に尽力した加藤良太さん(左)=4日、岩手県盛岡市
岩手DWATの創設に尽力した加藤良太さん(左)=4日、岩手県盛岡市
岩手県 陸前高田市
岩手県 陸前高田市
発災から約2カ月が経過した陸前高田第一中避難所の福祉支援室。千葉正道さんら福祉関係者のつてでベッドが導入された=2011年5月、岩手県陸前高田市(同県社協提供)
岩手DWATの創設に尽力した加藤良太さん(左)=4日、岩手県盛岡市
岩手県 陸前高田市

 1階視聴覚室に設けられた福祉支援室。認知症や視覚障害、四肢にまひがある高齢者とその家族計約30人が生活していた。柔道場から運んできた畳の上で寝泊まりし、トイレの介助などが必要な被災者もいた。当時、隣接する一関市の市社会福祉協議会の職員だった千葉正道さん(56)は介護福祉士会のネットワークを通じて31日に支援に入り、厳しい状況を目にした。
 避難していた80代の高齢夫婦は、歩行介助が必要な夫を日常的に妻が支えていたという。震災後に妻が腰を痛めたため、夫は寝たきりとなり、床ずれを発症。「環境整備は十分ではなく、さらなる悪循環につながるかもしれない」。千葉さんの脳裏には、災害関連死がよぎった。普段の仕事のつてで、床ずれ防止のマットレスやベッドを確保して避難所に配置した。
 「避難所の高齢者に支援の手が回っていない」。第一中の避難所の窮状は発災の数日後には市社会福祉協議会から岩手県社協に伝えられていた。県社協は3月下旬、職能団体による災害支援会議を設置し、派遣システムを立ち上げた。しかし、調整に時間を要したため、実際に動き出せたのは5月に入ってからだった。それまでは千葉さんのように個別団体を通じた支援をせざるを得なかった。避難所でも早期に福祉視点の対応が必要―。福祉関係者には共通の認識が芽生えた。
 約2年半を経て同県で災害派遣福祉チーム(DWAT)が誕生したのは、13年9月。活動マニュアルやチーム員養成のプログラムを作り、創設に尽力した県社協の加藤良太さん(50)は「福祉関係者の実体験や思いがDWATの理念、組織編成、活動手順に現れている」と説明する。
 高齢者だけでなく乳幼児や障害者など多様なニーズに対応するため、多職種でさまざまな課題に目を配れる編成となっている。震災後、派遣システムで支援に入った福祉関係者はあくまで「民間ボランティア」の位置付け。医療や保健師チームなど他団体との連携に難しさもあった。加藤さんらは「行政の要請に応じて派遣されるべき」と県庁の理解を得て組織化を進めた。「福祉の力で災害関連死を防ぐ」。重要な教訓の一つは静岡県をはじめ、全国の福祉チームにも引き継がれていった。  東日本大震災を契機に、岩手県で最初に誕生した災害派遣福祉チーム(DWAT)。今年3月までに、全ての都道府県でチームが編成され、能登半島地震でも活動を展開している。震災から13年、災害福祉支援の現場はどう変わったのか。

 <メモ>東日本大震災で、岩手県内では災害関連死を含めて5000人以上が亡くなった。阪神大震災後、災害時の福祉支援は社会福祉士会などの職能団体が全国ネットワークを通じて行っていた。一方で、東日本大震災では避難所での福祉ニーズに支援が行き届かない状況があり、福祉専門職チームの創設が進んだ。厚生労働省は2018年5月、災害派遣福祉チーム(DWAT)の組成など災害時の福祉体制構築を進めるよう都道府県に通知を発出。22年、災害福祉支援ネットワーク中央センターを設置し、広域派遣や平時の人材育成体制を強化した。

 

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