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「私はやっていない」裁判所に信頼と期待 袴田さん、当初は楽観視【最後の砦 刑事司法と再審⑬/第4章 我れ敗くることなし①】

 「私はやっていません」「全然やらなかったです」―。1966年11月の静岡地裁での初公判。現在の静岡市清水区でみそ製造会社の専務一家4人を殺害したとして強盗殺人などの罪に問われた袴田巌さん(87)は起訴内容を全面的に否認した。以来57年もの歳月を闘い続け、ようやくやり直しの裁判(再審)を勝ち取った。戦後5例目の死刑再審。しかし、精神に不調を来しているとして弁護団は袴田さんの出廷免除を求める。なぜ再審の実現はこれほどまでに時間がかかるのか。袴田さんが発してきた言葉に問題の本質を見る。

静岡地裁での初公判に向かう袴田巌さん。「私はやっていません」と起訴内容を全面的に否認した=1966年11月15日(画像の一部を加工しています)
静岡地裁での初公判に向かう袴田巌さん。「私はやっていません」と起訴内容を全面的に否認した=1966年11月15日(画像の一部を加工しています)


 事件の発生は66年6月30日未明。専務=当時(41)=の自宅から出火し、焼け跡から専務と妻=同(39)=、長男=同(14)=、次女=同(17)=の遺体が見つかった。複数の刺し傷があり、県警は強盗殺人・放火事件と断定。部屋から押収されたパジャマに付着した血が被害者の血液型と同じで、左手の指を負傷し、アリバイもなかったなどとして8月18日、住み込み従業員だった袴田さんを逮捕した。翌19日付の静岡新聞朝刊は〈袴田、“知らぬ”一点張り〉と報じた。
 袴田さんは勾留期限が迫った9月6日に犯行を「自白」。県警は〈良心を呼び起こすためじゅんじゅんとして説得したところ、さすが悪魔のような彼も童心にかえり目に涙を浮かべ、ついに良心のかしゃくから自供するに至った〉(「捜査記録」より)と総括した。
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 だが、自白は動機一つとっても変遷が著しかった。専務の妻との不適切な関係があり家を新築したいから強盗が入ったように見せかけ放火してほしいと頼まれた、という当初の説明は、最終的に、実母と息子と3人で暮らすために必要な金銭がほしかった、に変わった。公判で全面否認した袴田さんは、真実に反する自白をした理由を問われ「長期的な調べで体も疲れ切って、ほとんど寝られないような状態。頭が痛くてめまいもする。認めりゃ休ましてやる、と警察官が言いまして」(一審第22回公判)と説明。取り調べ時間は1日平均12時間、最大で16時間を超えた。自白直後に再び否認したが「おまえのおふくろもきょうだいも留置して調べる。息子は誰が見るんだ」と言われたと振り返り、それが「一番身に応えたです」と明かした。
 否認は一切聞き入れられず、暴力に加え、小便を調べ室でさせられたこともあったと主張した。検察の調書についても「言う通りにしていなければ後で刑事にいじめられますので。裁判所へ行って(真実を)言うよりしかたがないと思ったので、黙ってその場では署名・押印しました」(同第27回公判)と述べている。
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 一方、袴田さんが一審段階で家族へ宛てた手紙からは、裁判官には無実の訴えが届くだろうと楽観視していた様子がうかがえる。初めて書いた初公判前の手紙では〈親類縁者にまで心配かけてすみません。私は白です。今、落ち着いて裁判を待っております〉。67年2月には〈僕の憎いやつは僕を犯人に作り上げようとしたやつです。僕は犯人ではありません。ここ、静岡の風に乗って世間の人々の耳に届くことをひたすらに祈って僕は叫ぶ〉としつつも、〈でもね、お母さん、毎日こんなに真剣に考えている訳ではありませんよ〉〈明けても暮れても食うちゃ寝、食うちゃ寝、太る一方です〉とつづっている。
 自身の誤りを律義に正す文面も残る。同8月、拘置施設の入る静岡刑務所が清水の三保に引っ越すと以前の手紙に書いたことを〈間違いでした。おわびして訂正いたします〉と記した。翌月には〈新施設の新しい物ずくめの生活に、まるでしゃばの高級アパートにいる様な錯覚を起こします。便所も水洗で臭いが無くてよい〉とのんきさが漂う。
 この頃の手紙は家族を思う文面が目立ち、裁判への期待と信頼が感じ取れる。〈人間が人間を裁くということは非常に難しい物だ。私の場合も、真剣に裁判していただきたい。私は裁判所には、無罪が分かっていただけると信じています。我れ敗くることなし 巌〉

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