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「精神病」のレッテル 告発者、名誉回復できず【最後の砦 刑事司法と再審④/第1章 二俣事件の記憶③】

 1950年1月の二俣事件で、強盗殺人罪などに問われた須藤少年の静岡地裁浜松支部での最終弁論を翌日に控えた同年11月23日。二俣署の現職警察官による異例の投書が「夕刊読売」の紙面に載った。〈新憲法下今なお人権を無視した拷問によりこの少年に罪をなすりつけたものである〉

「島田事件」で死刑判決を受けた赤堀政夫さんの再審運動にも協力し、問題点を検討する山崎兵八さん(右)。左の元警察官南部清松さんも須藤少年の救済に尽力した=1977年12月、浜松市内(鈴木昂さん提供)
「島田事件」で死刑判決を受けた赤堀政夫さんの再審運動にも協力し、問題点を検討する山崎兵八さん(右)。左の元警察官南部清松さんも須藤少年の救済に尽力した=1977年12月、浜松市内(鈴木昂さん提供)

 告発したのは、山崎兵八さん=2001年に87歳で死去=。一家4人が殺害された現場に駆け付けた刑事の一人だった。自治体警察と国家地方警察の2系統の警察が存在した時代。手記によると、捜査を仕切った国警県本部の強力犯係、紅林麻雄警部補は「証拠は何もないが、(須藤少年は)正しく犯人。証拠集めをやってくれ」と指示を出した。取り調べの激しさが増す一方、アリバイがあることや足跡と足の大きさが異なることなど〈むしろ、反証の方ばかりが集まった〉
 「自白調書」を得た検察官は死刑を求刑した。無罪は明らかだと思っていたのに、先行きが暗い。山崎さんの心は告発するかどうかで揺れ動く。「もしも(少年が)私たちの子どもだったらどう思う。黙って見過ごしができるだろうか」と妻に決心を伝えると、最後は承諾してくれたという。
 山崎さんは証人としても出廷。しかし、須藤少年に死刑判決が言い渡された1950年12月27日、山崎さんは偽証容疑で逮捕されてしまう。精神鑑定で「妄想性痴ほう症」と無理やり診断されて不起訴となり、警察を追われた上に車の運転免許も取り上げられた。
 「おやじは(精神鑑定時に)医師から変な薬を注射されたと言っていた。夢に出るのか、死ぬまでうなされていた」。山崎さんの次男、正二さん(73)は振り返る。故郷の春野町(現浜松市天竜区)で新聞を配達し、正二さんらきょうだいも幼いころから手伝った。「事件に関しては、うちではタブーになっとって。でも、おやじは告発したことを後悔していなかったと思う」
 須藤少年の逆転無罪判決が58年1月に確定した。山崎さんは手記に〈今度は私の番だ。私は最後まで、私に狂人の烙印[らくいん]を押した人の責任を追及する〉と誓う。ところが、一家の苦難は終わらない。61年3月11日の白昼、自宅が全焼した。
 翌12日付の本紙は、こたつの残り火が原因とみられる、と伝えた。だが、正二さんは「柿の木に登っていたら、家に入っていく半長靴が片方だけ見えた。おかしい、と思って降りて見に行くと、火の海だった」と断言。山崎さんの次女、功子さん(75)は数日前に見知らぬ男から「山崎さんのお宅はここか」と尋ねられたことを記憶している。
 正二さんは警察官に囲まれ「火遊びのために火をおこしたんじゃないのか」と長時間、詰問された。常に「うそをついてはいかん」と口にしてきた父親をふと見ると、「もういいで、うんと言え、と。声には出さないが、そんな風に見えて…」。そう思い出すと、涙で言葉が続かなかった。
 山崎さんは汚名をそそぐため資料を集めていた。そこに「放火」の狙いがあったのでは―。正二さんは今も思う。「おやじは名誉を回復できないままだった」

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