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死刑台からの生還 冤罪晴れても消えぬ傷【最後の砦 刑事司法と再審③/第1章 二俣事件の記憶②】

 〈断首台の夢をみる。思わず大声を上げてはね起きる。静まり返った深夜の拘置所で目を覚まして、何回か私は気が狂いそうな気持ちに襲われた〉

袴田巌さんの釈放後、袴田さんや姉ひで子さんと出会った須藤春子さん。再審開始の確定を願い、集会で配るためのつまようじ入れを色紙で黙々と作り続けた=2016年1月19日、浜松市内
袴田巌さんの釈放後、袴田さんや姉ひで子さんと出会った須藤春子さん。再審開始の確定を願い、集会で配るためのつまようじ入れを色紙で黙々と作り続けた=2016年1月19日、浜松市内

 手記には、いわれのない強盗殺人の罪で死の淵に立たされた恐怖がつづられていた。
 現在の浜松市天竜区二俣町で1950年1月、一家4人が殺害された事件で逮捕・起訴されたのは当時18歳の少年だった。一、二審とも死刑判決が下る。最高裁は自白の真実性が疑われるとして破棄。審理を静岡地裁に差し戻し、一転して地裁、東京高裁で無罪となり58年1月に確定した。
 上告審から弁護人に加わり、後に衆議院議長も務めた清瀬一郎弁護士は同年2月の本紙に記した。〈死刑執行後、再審をやっても死者は生き還[かえ]らない。今から考えても身震いを禁じ得ぬ〉
     ■ 
 少年の名は、須藤満雄さん=2008年に77歳で死去=。祖母はフランス人の元芸人で、二俣で大正座という劇場を営んでいた。しかし、事件が発生する3年前の大火で全焼。須藤さんは事件当時、父親のラーメン屋台を手伝っていた。
 当時の報道によると、捜査は難航。1カ月半もたつと新聞に「迷宮入りか」の見出しが載った。警察は町の「不良」らを次から次へと引っ張り、取り調べを受けた人の数は300人を超えたとされる。そのうちの一人が須藤さんだった。
 須藤さんは公判で、警察署裏の土蔵で取り調べ中に拷問されたと主張。蹴られ殴られ、髪を引っ張られ、気絶。考える力が消え「私がやりました」と虚偽自白をした。裁判で真実を述べれば良いと思い―。拷問を受けたという証言は須藤さん以外からも上がった。
 地元の歴史に詳しい和田孝子さん(92)=同区二俣町=は「須藤君は無理やり犯人にさせられた、と当時から言われていた」と記憶をたどる。なぜ、ターゲットにされたのか。「この辺は古い町。何代も続く家は多い。○○家の息子より、当たり障りがなかった」からだと思う。警察がたたき上げの組織であることにも触れ「だから、功を急ぐ。強引にでも犯人を挙げないと、成績にならない。そんな背景があったのでは」。
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 冤罪(えんざい)が晴れても失われた時間は戻らない。消えない傷を負うことになる。「罪深いよ。すごく罪深いと思う」。須藤さんの妻春子さん(85)は、つくづくそう感じる。結婚は、きょうだいとの縁を切った上でのことだった。
 「(須藤さんが)下を向いてばっかりだったことがあって。私は『何も悪いことをしたわけじゃないんだから正々堂々と歩いて』と言った。祭りでも会合でも何でも出させた」。須藤さんが事件について話すことはほとんどなく、愚痴をこぼすこともなかったという。「曲がったことが嫌いで、うそを言わないきちょうめんな人だった。亡くなる前に全て身辺整理していた。苦労してきた人だった」

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