テーマ : ウクライナ侵攻

【ウクライナ政変10年】革命は終わらない 自由希求、対ロの原点

 10年前、キーウ(キエフ)中心部の独立広場を数万人の民衆が埋め尽くした。政権不信、汚職撲滅、ロシアの影響下からの脱却を叫び、親ロ政権を倒したマイダン(広場)革命は、今なお続くロシアとの戦いの原点だ。「自由を勝ち取るまで革命は終わらない」。あの時、広場で声を上げた女性は軍に入った。ウクライナがウクライナであり続けるために戦う。

2013年12月、ウクライナ野党勢力が首都キーウの独立広場で開いた大規模デモ(共同)
2013年12月、ウクライナ野党勢力が首都キーウの独立広場で開いた大規模デモ(共同)
2014年2月22日、ウクライナの首都キーウの独立広場に集まる反政権デモ隊(ロイター=共同)
2014年2月22日、ウクライナの首都キーウの独立広場に集まる反政権デモ隊(ロイター=共同)
ウクライナの首都キーウ中心部の独立広場前に立つタチアナ・オシポワさん=15日(共同)
ウクライナの首都キーウ中心部の独立広場前に立つタチアナ・オシポワさん=15日(共同)
ウクライナの首都キーウ中心部の独立広場前に立つタチアナ・オシポワさん=15日(共同)
ウクライナの首都キーウ中心部の独立広場前に立つタチアナ・オシポワさん=15日(共同)
2013年12月、ウクライナ野党勢力が首都キーウの独立広場で開いた大規模デモ(共同)
2014年2月22日、ウクライナの首都キーウの独立広場に集まる反政権デモ隊(ロイター=共同)
ウクライナの首都キーウ中心部の独立広場前に立つタチアナ・オシポワさん=15日(共同)
ウクライナの首都キーウ中心部の独立広場前に立つタチアナ・オシポワさん=15日(共同)

 ▽最初の反撃
 「われわれは自分自身のために団結し、欧州入りの未来を奪う試みに対する最初の反撃をした」。ゼレンスキー大統領は昨年11月、革命を「今の戦争における初の勝利」と評し、脱ロシアと欧州路線を決定づける分水嶺だったと訴えた。
 革命の始まりは2013年11月、親ロシアのヤヌコビッチ大統領に反発した人々が独立広場に集結した。治安部隊の武力鎮圧に対し、民衆も武器で抵抗。14年2月、双方が激しく衝突する中、治安部隊が発砲し107人が犠牲になった。
 ロシアは「欧米の支援を受けたネオナチによるクーデター」との筋書きを生み出し、南部クリミア半島の一方的な併合、東部ドンバス地域での紛争の大義名分とした。
 ▽抑圧
 「ウクライナ語の禁止や、ホロドモール(大飢饉)。抑圧は多くのウクライナ人にとって共通の苦しみとして語り継がれてきた」。タチアナ・オシポワさん(48)は14年2月、妹と2人で独立広場に向かった。治安部隊から汚い言葉でののしられ、警棒で制圧されたという。医療チームにいた仲間は銃で撃たれた。
 侵攻直前の22年1月、軍に入った。現在は領土防衛隊の旅団部門長。「ロシアは最初から完全支配をもくろんでいた。もし革命がなければ、ウクライナは消滅していた」
 ▽再評価
 ヤヌコビッチ氏が国を去り、新政権が誕生しても、革命の評価は割れた。15年の世論調査で革命を支持すると回答したのは40%で、革命反対派支持が8%、どちらも支持しないが42%だった。18年には革命支持が32%に低下した。汚職体質は変わらず、経済も低迷し、革命の評価を下げた。
 しかし22年の侵攻で状況が変わった。同9月の調査で革命支持が55%に増加。反対派支持は5%で、どちらも不支持は26%だった。当時はロシアとの決別に疑心暗鬼だった市民が、革命を肯定するようになった。
 22年にノーベル平和賞を受賞した人権団体代表オレクサンドラ・マトイチュク氏(40)も10年前、独立広場での抗議活動で不法に逮捕されたり、負傷したりした市民の法的支援に当たった。「国が発展すべき方向を市民が示した。代償は大きかったが、ウクライナは正しい道を歩んでいる」(キーウ共同=飯沼賢一)

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