テーマ : 読み応えあり

ビキニ事件70年「記憶の継承を」 第五福竜丸乗組員子息の思い

 焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被ばくした「ビキニ事件」は、3月1日で発生から70年となる。関係者の間で事件の風化が懸念される中、乗組員の子息たちが取材に応じ、生前父親から聞いた体験や自身の思いを語った。進水直後の第五福竜丸
 ビキニ事件 1954年3月1日、米国が太平洋・ビキニ環礁で水爆実験を実施し、公海で操業中だった焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被ばくした。約半年後に同船元無線長の久保山愛吉さん=当時(40)=が亡くなった。同船は、東京水産大(現在の東京海洋大)の練習船として使用されていたが、67年に廃船。その後、76年に開館した都立第五福竜丸展示館(東京都)で展示している。
 父の告白「負担 取れたよう」
 元漁労長 見崎吉男さんの長女 杉山厚子さん
父が被ばく体験を告白した時の様子を語る杉山厚子さん=焼津市内
 2016年に亡くなった第五福竜丸の元漁労長見崎吉男さんの長女杉山厚子さん(73)=焼津市=は、父がこれまで語らなかった被ばく体験を告白した瞬間に立ち会った。「心の負担が取れたようだった」と厚子さんは振り返る。見崎吉男さん
 厚子さんは父が被ばくした事実は知っていた。ただ、家庭内で話題に上ることはなく、周囲も触れなかった。01年に静岡精華短大(現静岡福祉大)で「第五福竜丸と国際政治」と題した講座が開かれることを知ると、吉男さんを誘って一緒に参加した。
 吉男さんが告白を始めたのは初回講座の自己紹介の場面。「僕は被ばく者です」と口火を切り、「太陽が西から出てくるなんておかしいと思った」などとビキニ事件の体験を淡々と語った。横にいた厚子さんは初めて聞く話に衝撃を受けた。
 事件当時、厚子さんは3歳。その時の父の周囲で起こった出来事の記憶は全くない。事件をきっかけに焼津はもとより全国でマグロが売れなくなった。乗組員たちが米国から見舞金を受け取ったことをきっかけに地元の人の態度に変化が生じた。ビキニ事件から半年後の1954年9月に元無線長久保山愛吉さんが亡くなったことで、乗組員の中で死への不安が広がった。やがて、本来優しい性分の吉男さんは「怖い人」(厚子さん)になり、ビキニでの出来事を口にしなくなった。
 告白後、吉男さんは漁業関係者と話をする機会があったという。その時、厚子さんは吉男さんから「(彼らに)謝ることができて良かった」と口にした。思わず「被害者なのになんで謝るのか」と問い詰めた。ただ、告白をきっかけに吉男さんが本来の姿に戻った気がした。「告白したことで心にひっかかったことが取れたのでは」。厚子さんは今、父に「謝ることができて良かった」と言わしめた背景を理解する。
 ビキニ事件から70年。厚子さんは5月に父の思い出について語る会を企画している。対外的に発信するのは初めてとなる。告白後事件のことを発信し続けた父が亡くなってから8年ほどがたち、事件への関心が薄れつつある現状に危機感を持つ。厚子さんは「事件を忘れてはいけない。今度は自分が語っていくべきと思った」と語る。
 被ばく体験談 今でも鮮明に
 元料理長 服部竹治さんの長男 服部茂さん
平和への思いを継承する必要性を訴える服部茂さん=焼津市内
 1997年に亡くなった第五福竜丸の元料理長服部竹治さんの長男茂さん(75)=焼津市=は成人したある日、父と向き合い、意を決してビキニ事件の事を聞き出した。茂さんは父が語った内容を今でも鮮明に覚えている。服部竹治さん
 54年3月1日。料理長だった竹治さんは早朝、外が真っ暗な中、船内でみそ汁を作っていた。甲板の方で「日が出ている」という声がした。外を見ると、水平線に太陽とは違う真っ赤な物体の姿が。時間がたつとどんどん大きくなっていく。どこからか「ドーン」という地響きのような爆音が広がった。しばらくすると白い粉のような物体が降ってきた。雪と勘違いする乗組員もいたらしい。漁の作業に立ち会わない竹治さんは帽子をかぶっていなかった。焼津に帰ると、髪の毛がごそっと抜けた。「生まれて初めての光景。水爆実験だなんて誰も想像しない」と竹治さんは語っていたという。
 竹治さんにとって初めての遠洋航海。花形ともいえるマグロ船の乗船だけに喜んでいたという。茂さんに事件当時の記憶はほとんどないが、出港前の福竜丸で乗組員たちと一緒にご飯を食べた記憶はある。
 40歳代の頃に茂さんは中学時代の恩師塚本三男さんからの誘いをきっかけに平和運動に参画する。事件当時、静岡大の塩川孝信教授と共に放射能検査に携わった塚本さん。ソ連(当時)の核実験場だったカザフスタン訪問をきっかけに「日本カザフ友好協会」の設立に奔走。茂さんに協力を呼びかけた。
 97年に茂さんは塚本さんとともにカザフスタンを視察する。そこで成長が止まったとされる子どもと出会う。母親が原爆実験で被ばくしたためと説明を受けた。最も衝撃を受けたのは現地の住民は焼津市を原水爆の被災地として広島市、長崎市とともに認識していたことだった。「反核」への思いを強くした。
 茂さんは原水爆に関する資料の収集に取り組んできた。事件から70年を迎え「事件の記憶を失ってはいけない。若い人に平和への思いを継承できればと考えている」と話す。
 降り注いだ「死の灰」 静岡と都内で所蔵
 第五福竜丸の乗組員たちを放射能症に陥らせた放射性降下物は「死の灰」と呼ばれた。ビキニ事件の水爆実験で噴き上げられたサンゴ礁の微粉末で、操業中だった船に降り注いだ。静岡大塩川孝信教授らが採取した「死の灰」
 記録によると、灰は船員が爆発音を聞いた約3時間後に降り出し、5時間以上降り続いた。甲板は雪が積もったように白くなり、乗組員の体の露出部に付着したり、シャツとズボンの間や長靴の中に入ったりした。乗組員たちは吐き気や頭痛を訴えはじめ、やがて皮膚のただれや脱毛の症状も出た。帰港後に乗組員の一人は「灰をかぶって原子病を発病した」と診断された。
 灰は3月14日、静岡大の塩川孝信教授らが分析作業のため、焼津港に帰った船の各所から採取した。灰の一部は現在、静岡大キャンパスミュージアム(静岡市駿河区)と都立第五福竜丸展示館(東京都)で所蔵している。
 同展示館の灰は小さな粉末がシャーレの上で散らばっている。同ミュージアムの灰は船体塗料、ドラム缶のさび、竹の先端、サメのひれと採取した場所を記したラベルを付けた瓶に保管されている。竹はマグロを捕る時に使う道具で、先端を海に向かって突き出すように置かれていたという。
 (焼津支局・福田雄一)

いい茶0

読み応えありの記事一覧

他の追っかけを読む
地域再生大賞