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「なぜ夫は殺されたの?」5年後の今も続く遺族の苦悩 裁判官と受け答えができた加害者は「心神喪失」、公判なく真相は不明のまま…

 2019年2月、東京都渋谷区の児童養護施設で施設長の大森信也さん=当時(46)=が刺殺された。逮捕されたのは、元施設入所者の20代男性。殺人容疑で送検されたが、心神喪失と判断され不起訴処分となった。

東京地裁、東京高裁などが入る裁判所合同庁舎
東京地裁、東京高裁などが入る裁判所合同庁舎
事件があった児童養護施設周辺を調べる捜査員=2019年、東京都渋谷区
事件があった児童養護施設周辺を調べる捜査員=2019年、東京都渋谷区
大森信也さんの遺影
大森信也さんの遺影
亡くなった大森信也さんの遺影を手にする妻の真理子さん
亡くなった大森信也さんの遺影を手にする妻の真理子さん
大森信也さん=2018年、名古屋市(妻の真理子さん提供)
大森信也さん=2018年、名古屋市(妻の真理子さん提供)
東京地裁、東京高裁などが入る裁判所合同庁舎
事件があった児童養護施設周辺を調べる捜査員=2019年、東京都渋谷区
大森信也さんの遺影
亡くなった大森信也さんの遺影を手にする妻の真理子さん
大森信也さん=2018年、名古屋市(妻の真理子さん提供)

 同年7月、妻の真理子さん(56)は男性の治療の処遇を決める審判で、初めて姿を目にした。驚いたことに、裁判官の質問に問題なく受け答えしている。
 「なぜこれで心神喪失なのか」
 刑事事件の被告は、心神喪失と判断されると罪を問われず、治療を受ける。さらに治療後の社会復帰促進まで検討することが「心神喪失者等医療観察法」で定められている。
 ただ、被害者や遺族はやり切れない。公開される情報は限られ、加害者の権利が重視されているように感じる。裁判が開かれず真相解明の機会もない。
 「なぜ夫は殺されたのか」「男性の治療はどうなっているのか」
 事件から5年がたった今も、真理子さんの苦悩は続いている。(共同通信=櫛部紗永)
 ▽入所者を支え続けた夫
 信也さんが働いていた「児童養護施設」は、さまざまな事情で親元を離れた子どもたちが暮らす。職員は養育を手助けしながら生活を共にし、退所後には自立をサポートする。
 信也さんは真面目で正義感が強かった。入所する子どもたちと一生懸命に向き合い、休日によくキャンプやサイクリングに出かけた。入所者には「父親のような存在」と慕われ、児童養護関係者からは「次世代のリーダー」と期待された。厚い信頼を寄せられた施設長だった。
 逮捕された男性は、信也さんが長く支えた入所者の一人だった。12年、母親の養育困難を理由に入所。高校時代を施設で過ごし、15年に18歳で退所した。アパート契約では信也さんが連帯保証人を引き受けた。壁を壊すトラブルを起こした際も、100万円を超える修繕費を個人で肩代わりしようとした。
 事件数カ月前、男性は家賃の滞納などで住んでいた家を失い、職場から失踪。行方が分からなくなった。2月25日午後、突然施設を訪れ、勤務中だった大森さんを殺害。現行犯逮捕された。
 「夫が気に掛けていた子が突然どうして」。真理子さんに心当たりはなく、ただただ信じられなかった。
 ▽わずか2行の告知
 男性は取り調べに「施設に恨みがあり、誰でもよかった」と供述。さらに次のように不可解な主張を繰り返した。「職員に頭の中を見られていた」「ストーカーをされたから、やりかえした」。程なくして、精神状態を調べる鑑定留置が始まった。
 男性は19年5月、「刑事責任能力がない」として不起訴処分になった。真理子さんに地検から詳しい説明はなかった。手元に届いた通知書はわずか二行。
 「心神喪失で不起訴とする」
 夫の名前は記載すらなかった。「私は被害者遺族ではなくなってしまった」。そう痛感させられた。
 ▽絶たれた再捜査の道
 2019年7月、審判が開かれた。真理子さんは裁判所に手続きをして傍聴した。男性から動機を聞けるかもしれないと期待したからだ。
 だが制度上、被害者は意見を述べることができない。弁護士の同席も認められず、裁判官が男性にした質問の中には、その意味を理解しきれないものもあった。しかも、審判で事件に触れたのはわずかな時間だけ。社会復帰に向けた話し合いが中心であることに違和感を抱いた。
 審判が開かれたのは、たった1日だけ。翌月、裁判所からの通知で男性が入院治療になったと知った。
 何があったのかを知ろうと、検察や裁判所にさまざまな情報の開示を求めた。しかし、肝心の精神鑑定書や供述調書は黒塗りばかり。病名や入院先も個人のプライバシーを理由に伏せられた。
 市民で構成し、不起訴の妥当性を判断する検察審査会に望みをかけた。いったん「不起訴不当」と議決が出たが、検察は2020年4月、再び不起訴とした。理由は前回と同じ、「心神喪失で罪に問えない」だった。
 ▽遺族の権利は損なわれたまま
 真理子さんの願いは、事実を知ること。しかし、自分で申し出なければ情報は得られない。さらに、その情報すら限られているのが現実だった。遺族にとって、真相を解明する刑事裁判の場を奪われることはつらすぎる経験だった。
 被害者支援に取り組む濱口文歌弁護士はこう指摘する。
 「精神疾患を抱える加害者の名誉やプライバシーは尊重すべきだが、本来保障されるべき被害者らの権利が侵害されてはならない。被害者の立場を重視した法改正を検討すべきだ」
 ▽被害者の会立ち上げ
 真理子さんは2021年6月、「医療観察法と被害者の会」を発足させた。活動では、現状を知ってもらうシンポジウムや、法務省などへ要望書を提出。審判での意見陳述や弁護士の傍聴、情報開示の拡大などを求めている。「加害者に精神疾患があっても、遺族が大切な人を失ったことに変わりはない。刑事責任能力がある場合と同様に被害者の権利を認めてほしい」
 遺族の中には、会の存在を支えに前を向けた人もいる。妻を殺害された男性もその1人。「事件直後は怒りしかなかったが、誰かが動かないと社会は変わらないと思えた。まずは心神喪失者が抱える問題を理解する必要がある」
 この男性は昨年、福祉専門学校で講演し、精神保健福祉士を志す学生に自らの経験を語った。
 ▽更生を願って
 大森さんの命を奪った男性は、今も入院したままだ。標準とされる1年半の入院期間をとうに過ぎた。真理子さんには治療の進捗を知るすべはなく、社会復帰の目安は知らされない。「施設への恨みは消えているのか、将来誰が男性をケアしていくのか…分からないことばかり。せめて加害者の状況を教えてほしい」。仮に退院しても所在地は明かされず、不安は尽きない。
 それでも、真理子さんは男性の更生を願い続ける。「病気を治しながら、自分の罪と向き合い、命を奪うことの意味を理解してほしい。そうでなければ本当の意味での社会復帰とは言えない。夫はよく『人はたくさん失敗して、そこから成長するもの』と言っていた。だから、乗り越えてほしい」

いい茶0

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