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「こんなこと許されるの?」調査委員会が認定した「いじめ」は裁判で一転否定、どん底に突き落とされた母親の怒り 命を絶った娘のために闘い続けた11年

 ある日突然、わが子が自ら命を絶った。しかも、いじめを受けていたかもしれない。あなたが親ならどんな行動を取るだろうか。

娘の写真に手を当てる母親=2021年3月21日、奈良県橿原市の自宅
娘の写真に手を当てる母親=2021年3月21日、奈良県橿原市の自宅
奈良県橿原市の自殺した女子生徒が書き残したノートの文字。「つらいときもえがお」と記されている
奈良県橿原市の自殺した女子生徒が書き残したノートの文字。「つらいときもえがお」と記されている
娘が使っていた財布。大好きだったユニバーサル・スタジオ・ジャパンの年間パスもそのままにしてある=2023年10月14日
娘が使っていた財布。大好きだったユニバーサル・スタジオ・ジャパンの年間パスもそのままにしてある=2023年10月14日
奈良県橿原市の女子生徒が自殺した問題で、報告書を公表し記者会見する調査委員長の出口治男弁護士(中央)ら=2015年4月23日、橿原市役所
奈良県橿原市の女子生徒が自殺した問題で、報告書を公表し記者会見する調査委員長の出口治男弁護士(中央)ら=2015年4月23日、橿原市役所
調査委員会の報告書公表を受け、記者会見で心境を語る自殺した女子生徒の母親。頬には涙が伝う=2015年4月23日、奈良県橿原市役所
調査委員会の報告書公表を受け、記者会見で心境を語る自殺した女子生徒の母親。頬には涙が伝う=2015年4月23日、奈良県橿原市役所
調査委員会の報告書公表を受け、記者会見する奈良県橿原市の森下豊市長(右端)ら=2015年4月23日、橿原市役所
調査委員会の報告書公表を受け、記者会見する奈良県橿原市の森下豊市長(右端)ら=2015年4月23日、橿原市役所
奈良地裁に入る女子生徒の母親(右端)ら=2021年3月23日
奈良地裁に入る女子生徒の母親(右端)ら=2021年3月23日
娘を亡くしてから10年が経過し仏壇を見つめる母親。引っ越し先の京都市の自宅で=2023年3月28日
娘を亡くしてから10年が経過し仏壇を見つめる母親。引っ越し先の京都市の自宅で=2023年3月28日
娘の写真に手を当てる母親=2021年3月21日、奈良県橿原市の自宅
奈良県橿原市の自殺した女子生徒が書き残したノートの文字。「つらいときもえがお」と記されている
娘が使っていた財布。大好きだったユニバーサル・スタジオ・ジャパンの年間パスもそのままにしてある=2023年10月14日
奈良県橿原市の女子生徒が自殺した問題で、報告書を公表し記者会見する調査委員長の出口治男弁護士(中央)ら=2015年4月23日、橿原市役所
調査委員会の報告書公表を受け、記者会見で心境を語る自殺した女子生徒の母親。頬には涙が伝う=2015年4月23日、奈良県橿原市役所
調査委員会の報告書公表を受け、記者会見する奈良県橿原市の森下豊市長(右端)ら=2015年4月23日、橿原市役所
奈良地裁に入る女子生徒の母親(右端)ら=2021年3月23日
娘を亡くしてから10年が経過し仏壇を見つめる母親。引っ越し先の京都市の自宅で=2023年3月28日

 記者会見で子どもへの思いを語る、学校やいじめた側を相手取って裁判を起こす―。ニュースで取り上げられるそんな姿は、遺族として当たり前の行動のようにも映る。しかし、親の心には想像を絶するほどの悲しみや怒りが刻まれている。
 11年前の3月28日、奈良県橿原市の中学校に通う女子生徒が仲間外れなどのいじめを受けたと訴え、自殺をした。母親(54)は、自ら原因を調べ、市を訴えた。亡くなって11年、娘の死と向き合い続けた理由はただ一つ。
 「娘はなぜ死んだのか。真実が知りたい」(共同通信=酒井由人)
 ▽送られなかったメール「みんな呪ってやる」
 春休みまっただ中の2013年3月28日。ソフトテニス部に入る中学1年の娘はいつもより早く起きてきた。
 リビングに来るなり、ぽつりと一言。「ママ、今日(テニスの)試合やった」。急いで弁当の支度に取りかかった。
 「朝ご飯食べ」
 「いらん」
 「いらんことないから。ママお弁当作るから、はよ用意しておいで」
 「お弁当いらん」
 「お弁当なかったら動かれへんくなるやんか」
 反抗期真っ盛り。こんなやりとりをしながら、急ごしらえで食材を調理し、具材を弁当に詰めていった。
 朝ごはんを済ませ、「行ってきます」と家を出た娘。後ろ姿に「気い付けて」と声をかけた。いつもと変わらない日常の一コマだった。
 しばらくして家の電話が鳴った。
 「娘さんいてはりますか?」
 学校の先生からだ。どういうことだろう。家を出て、部活に向かっていると伝えた。
 「どれぐらい前ですか?」
 10~15分ほど前だったかな。あいまいな回答をすると、電話口の声が慌ててこう言った。
 「娘さんがマンションから落ちたようです」
 受話器を持つ手が震えた。
 きっと2、3階から誤って落ちたんだ。だから大丈夫―。そう自分に言い聞かせながら、伝えられた病院に急いだ。だが、到着後に警察官から告げられたのは、7階からの転落だった。
 目の前で勢いよくシャッターが下ろされたように、視界が真っ暗になった。
 説明を受けた医師の医療用手袋は血にまみれていた。「これ以上、体を傷つけることはできません」。「傷つけてもいいから助けてください」。必死に食い下がったが、付き添っていた母から背中をそっとたたかれ、悟った。娘は死んだのだ。
 転落したマンションから見つかった娘のリュックは、警察が調べることになった。娘の携帯電話が残されており、一通の未送信メールが保存されていた。
 「みんな呪ってやる」
 ぽっかりと心に穴が開いたようで、悲嘆に暮れる毎日を過ごした。亡くなった娘には、大学生と同じ中学に通う2人の姉がいた。悲しんでばかりはいられない。2人の前では、これまでと同じ「明るいお母さん」で過ごした。それでも心の空白は埋められず、誰もいない夜中に一人涙を流した。
 ▽初めて聞かされた学校での変化。母親は怒り、そして動き出した
 市の教育委員会が記者会見を開き、4月中旬、自宅に送られてきた発表資料に目を通していた。読み進めていくと、ある一文に目がとまった。
 「3学期から様子がおかしかった」
 えっ、何これ?どういうこと?
 家ではいつも通りだった。疑問を覚え、学校に問い合わせると、驚くべき事実を知らされた。
 「今まで仲良くしていた友達から外されていた」「休み時間は一人でぽつんとしていた」。学校で、つらそうにしている娘の姿が浮かんだ。
 娘の最期の日を思い出す。「弁当いらん」。もしあの時、「なんでいらんの?」と聞いてあげれば、娘が死ぬことはなかったのかもしれない。後悔にさいなまれた。
 「なぜ生きている時に教えてくれなかった?」。学校への怒りが湧いた。詳しい説明を学校に求めても要領を得ない回答しか返ってこない。いても立ってもいられず、娘と仲が良かった同級生たちに話を聞いて回った。
 保護者からの了解を取り付け、一人ずつ丁寧に話を聞いていった。「グループにいるけど会話には入れてなかった」「電話で『もうこんなんいじめやん、死にたい』と相談された」。断片的な情報がつながり、いじめの実態が浮かんできた。
 学校や教育委員会に、在校生を対象にアンケートをするよう迫った。だが、学校側は家庭内の問題とみており、調査に難色を示した。それでも何度も要望を重ね、なんとか実施にこぎつけた。
 集まったアンケートには、クラスで無視されている様子などを見聞きしたという回答が40件以上寄せられていた。
 ▽報告書は学校の対応を非難「大人の汚い論理でもてあそんだ」
 教育委員会もこの結果を無視することはできず、いじめの有無を調べる調査委員会を設置。ただ調査に後ろ向きだった教育委員会に不信感があり、調査の実効性にも疑念を持っていた。せめて委員の人選に関して遺族の意向を反映させるよう訴えたが、実現しなかった。
 そんな中、調査委員会のメンバーに、直前まで市の顧問弁護士をしていた人物が含まれていることが判明。さらに、娘の死後、この弁護士が「将来は訴訟になる」と市に助言し、訴訟に備えて、市が親族の戸籍や住民票を取得していたことが発覚した。
 遺族を敵対視しているかのようなやり方に、不信感はいっそう募った。遺族の反発を受け、この委員は解任され、調査委員会のメンバー全員の人選をやり直すこととなった。
 娘が亡くなった日から2年が過ぎた2015年4月。新たな委員で構成された調査委員会が、約180ページに及ぶ報告書を公表した。
 報告書は、娘が同級生たちから避けられたり、嫌なことを言われたりしていたと認定。無視されるなどの仲間外れがあったことにも触れ、「いじめは優に認められる」と、結論付けた。
 また「女子生徒の顕著な変化が救いを求める信号であったと受け止めることは、十分可能だったと思われる」とも明記。学校側が娘の様子の変化を把握しており、自殺を防げた可能性についても踏み込んだ。
 報告書では、遺族に対する姿勢や調査委員会の人選をめぐる学校側の対応を、極めて強い言葉でこう指弾した。
 「子どもの死を汚れた大人の論理でもてあそんだことは誠に許しがたい」
 報告書が公表されたその日、市役所で記者会見を開いた母親は、目に涙を浮かべ、集まった報道陣を前に声を振り絞った。「もし学校が娘の異変を伝えてくれていれば、最悪の事態を避けることができたのではないか。そう思い、大変悔しい思いでいっぱいです」
 母親ら遺族は同じ年の9月、報告書の内容を基に、いじめをしたと認定された同級生らと橿原市を相手取り、奈良地裁に損害賠償を求める裁判を起こした。
 ▽争点となったのは、調査で認められた「いじめの事実」
 被告となった市と同級生らは裁判で、いじめ自体がなかったと主張。仮に報告書のようないじめがあったとしても、死に追い込む程度のものではなかったと訴えた。
 「娘にしてやれることはこれぐらいしかない」。そう思って裁判所に足を運び続けた。しかし「いじめはなかった」など、被告側から発せられる言葉は遺族にとっては受け入れがたく、審理を見守ることだけでも精神的負担となった。
 裁判の作戦を練るため、弁護団会議が何度も開かれた。出席を求められると、仕事を休むほかなかった。会議が夜遅くまでかかることもあり、そんな時は、子どもたちの晩ご飯を朝に作って家を出た。
 一審は6年にも及んだ。調査委員会の報告書でいじめは認定されていたし、こちらの主張を聴く時の裁判長の反応もよく、手応えはあった。勝訴した時に備え、被告側に控訴断念を求めるオンライン署名を集めようと準備も始めていた。
 ▽いじめの存在を否定した判決「調査委員会とは目的が異なる」
 2021年3月、一部の同級生について母親が「納得できる形」での和解に至った。しかし、その5日後、他の生徒や市に対する訴訟で奈良地裁は「原告の請求を棄却する」との判決を下した。
 地裁は、母親側が訴えたいじめの存在を「友人や部活の顧問の証言や陳述、調査報告書などをもって、ただちに仲間外しや無視があったとは認められない」とした。
 当時の学校側の対応については、次のように指摘した。
 「女子生徒の孤立感は担任や部活の顧問が把握していたものの、孤立感を把握していたことだけで、具体的な自殺防止義務が発生するというのは困難」
 いじめを認定し、自殺防止の可能性にまで言及した調査委員会の報告書と異なる結論だ。すぐに控訴したが、2023年5月、大阪高裁も請求を棄却し、裁判は終わった。
 いじめが認められなかった―。一気にどん底に突き落とされ、言葉が出なかった。
 高裁判決では、2015年4月の報告書でいじめが認定されていたが、「必ずしも調査委員会と(裁判所が)同一の結論に至るとは限らない」と結論付けた。
 娘が亡くなってから11年。2024年3月28日は「闘い」を終えてから初めての命日だ。裁判さえ起こさなければ、一度認定された「いじめ」が否定されずに済んだかもしれない。だが、後悔はない。「わが子がなんで死んだのか分からんと生きていけない。知りたいと思うのが親」
 そうは言っても、心の中のわだかまりは消えない。「学校側が立ち上げた調査委員会の報告書を、司法の場で学校側が否定して、結果その通りになった。こんなことが許されていいの?」
      ×      ×
 記者は2024年2月、橿原市教育委員会に現在のいじめ対策などについて問う質問状を送った。橿原市は、いじめに関する保護者からの問い合わせを受ける相談員や、学校に法的な視点からアドバイスをする弁護士を配置したと回答。その後、同様の事案は発生していないという。
 当時の訴訟については「いじめの有無が直接、違法に当たるとはいえない」とした。

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