テーマ : 読み応えあり

【ドミニカ移民】移住68年、補償実現に安堵 ドミニカ共和国異例の対応

 1950年代に日本政府の政策でドミニカ共和国に移住しながら約束通り土地が譲渡されなかった日本人を対象に、共和国政府が進めてきた補償の支払いが、1月までにほぼ完了した。支給は45家族に各約2千万円。中南米の日本人移民への受け入れ国政府による補償金支給は初めてとなった。移住開始から68年。苦難を乗り越えてきた人々は「ほっとした」と安堵している。

ドミニカ共和国ダハボンで、農耕地の水不足に苦しんだ体験を語る向井猛さん=2023年8月(共同)
ドミニカ共和国ダハボンで、農耕地の水不足に苦しんだ体験を語る向井猛さん=2023年8月(共同)
日本人移住者の歴史が記された石碑の前に立つ向井猛さん=2023年8月、ドミニカ共和国ダハボン(共同)
日本人移住者の歴史が記された石碑の前に立つ向井猛さん=2023年8月、ドミニカ共和国ダハボン(共同)
日本人入植者の墓地を歩く向井猛さん=2023年8月、ドミニカ共和国ダハボン(共同)
日本人入植者の墓地を歩く向井猛さん=2023年8月、ドミニカ共和国ダハボン(共同)
ドミニカ共和国政府との補償交渉の経緯について語る嶽釜徹さん=2023年8月、サントドミンゴ(共同)
ドミニカ共和国政府との補償交渉の経緯について語る嶽釜徹さん=2023年8月、サントドミンゴ(共同)
ドミニカ共和国ダハボンで、農耕地の水不足に苦しんだ体験を語る向井猛さん=2023年8月(共同)
ドミニカ共和国ダハボンで、農耕地の水不足に苦しんだ体験を語る向井猛さん=2023年8月(共同)
ドミニカ共和国・日本人入植地
ドミニカ共和国・日本人入植地
ドミニカ共和国ダハボンで、農耕地の水不足に苦しんだ体験を語る向井猛さん=2023年8月(共同)
日本人移住者の歴史が記された石碑の前に立つ向井猛さん=2023年8月、ドミニカ共和国ダハボン(共同)
日本人入植者の墓地を歩く向井猛さん=2023年8月、ドミニカ共和国ダハボン(共同)
ドミニカ共和国政府との補償交渉の経緯について語る嶽釜徹さん=2023年8月、サントドミンゴ(共同)
ドミニカ共和国ダハボンで、農耕地の水不足に苦しんだ体験を語る向井猛さん=2023年8月(共同)
ドミニカ共和国・日本人入植地

 「カリブの楽園」。日本海外協会連合会(現・国際協力機構)がドミニカへの農業移民を募った際のうたい文句だ。だが「実際は地獄だった」とドミニカ日系人協会の嶽釜徹会長(85)は話す。
 日本政府は56~59年に移住者を募集し、249家族計1319人が渡航した。約6~18ヘクタールの土地が譲渡される約束だったが、実際に配分されたのははるかに小さく所有権もない農耕不適地が大半。「戦後移民史上、最悪のケース」と呼ばれた。
 北西部ダハボンに住む向井猛さん(76)=山口県岩国市出身=は「(日本政府の)募集要項とは雲泥の差で、来た途端に夢は消えた」。最初の土地には電気も病院もなかった。日本人が送られた八つの入植地は多くが劣悪な環境で、生活苦や、死ねば家族を日本に帰してもらえるとの考えから10人超の自殺者も出た。
 2000年以降、約170人が募集条件違反だとして日本政府への損害賠償を求め東京地裁に提訴。06年の一審判決は国の賠償責任を認めたが、除斥期間を過ぎたとして請求は棄却した。小泉純一郎首相(当時)の謝罪談話と1人最高200万円の特別一時金の支給が示され、原告側は控訴を取り下げたが、譲渡されるはずだった土地の問題は未解決のまま残った。
 16~21年に駐ドミニカ共和国の日本大使を務めた牧内博幸氏は、20年に就任したアビナデル大統領に問題解決を要請。大統領は「日本人にとって重要で、共和国政府が解決すべき問題だ」と補償を決断し、嶽釜会長らも地価を算出するなどして政府と交渉した。移住65周年の21年7月に大統領府で記念式典が開かれ、アルバレス外相が日本人移民に謝罪、補償を発表した。
 大統領令により45家族に各約844万ドミニカペソ(約2150万円)の支給が決まり、日本人によるドミニカ共和国発展への「貢献」も一文に盛り込まれた。向井さんは政府の決断を「思い切ったことをした」と評価し、「ほっとした」と補償金を受け取った際の心境を語った。
 一方、日本大使館の後押しで訴訟には参加せず、00年ごろに共和国政府から土地を受け取った移住者もいる。だがこの土地も耕作不適地で、政府との補償交渉が続いている。(サントドミンゴ、ダハボン共同=中川千歳)

いい茶0

読み応えありの記事一覧

他の追っかけを読む
地域再生大賞