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「記者のしおり」・西村亨著・「自分以外全員他人」 生真面目さゆえのおかしみ

 当たり前のようだが哲学的にも思える、妙に気になるタイトルだ。世知辛い社会をしたたかに生き抜く、唯我独尊的な人物の物語かと思ったら、むしろ逆だった。

「自分以外全員他人」
「自分以外全員他人」

 主人公はマッサージ店で働く柳田譲、44歳、独身。生真面目であるがゆえに傷つきやすく、「ただ生きているだけなのにしょっちゅう精神を病んでしまう」タイプ。自分と一緒にいても不幸になると思い、恋人には別れを告げた。肉食の残酷さを訴える動画を見て肉が食べられなくなり、菜食主義者に。人付き合いは苦手で、コロナ禍になってからの唯一の楽しみは自転車で疾走すること。
 自粛要請で社会全体の空気が沈む中、繊細な彼の心は、横暴な客や老いた母の言葉によって削り取られていく。やがて、自死することだけに希望を見いだすようになるが、駐輪場で起きたある“事件”に怒りを暴発させてしまい…。
 「キレる中年」による理不尽な事件が相次ぐ昨今。彼らの胸の内はなかなかうかがい知ることができないが、もしかしたら最初はこんな気持ちだったのかも、と思う心理描写がいくつもある。
 例えば「人に優しくしなさい」という母の教えを必死で守ってきた柳田の心を“決壊”させたのは、他でもない母のこんなひと言だった。「みんな自分のことしか考えてないのに」
 自分の気持ちより他人の気持ちを優先して生きてきた柳田にとって、それは世界を反転させるような言葉だったのだ。なんてちっぽけな、なんて悲しい、でも人間くさい世界。彼の心情を淡々とつづる文章からは、寂しさと同時に、ほのかなおかしみがにじむ。
 柳田は何か重大な事件を起こしてしまうのか。それとも一人寂しく死んでいくのか―。ハラハラしながら読み進めた先の意外な終幕。決してすがすがしいとは言えないが、肩の力が抜け、ふっと笑ってしまった。キレる人々も正体不明のモンスターではないのだ。きっと。(安藤涼子・共同通信記者)
 (筑摩書房・1540円)

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