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甲子園の「神整備」は土守が100年引き継いできた技術と思いの結晶だった 「グラウンドが分かるまでに10年」傾斜や土の配合にも職人のこだわり

 街にまだ正月飾りが残る1月9日朝、兵庫県西宮市の甲子園球場に耕運機の稼働音が響いていた。大きな爪を回転させながら掘り返すのは、全国の高校球児が憧れる黒土のグラウンドだ。

1月に甲子園球場で行われたグラウンドの掘り起こし=1月9日、兵庫県西宮市
1月に甲子園球場で行われたグラウンドの掘り起こし=1月9日、兵庫県西宮市
グラウンドの「掘り起こし」が行われた甲子園球場=1月9日
グラウンドの「掘り起こし」が行われた甲子園球場=1月9日
インタビューに応じる阪神園芸の金沢健児さん=2023年9月20日、兵庫県西宮市の甲子園球場
インタビューに応じる阪神園芸の金沢健児さん=2023年9月20日、兵庫県西宮市の甲子園球場
試合を前に甲子園球場のグラウンドを整備する阪神園芸の金沢健児さん=2023年9月
試合を前に甲子園球場のグラウンドを整備する阪神園芸の金沢健児さん=2023年9月
石川真良さんが土の研究をしていた頃の建設中の甲子園球場=1924年6月(阪神電鉄提供)
石川真良さんが土の研究をしていた頃の建設中の甲子園球場=1924年6月(阪神電鉄提供)
甲子園球場レフトスタンド裏にある記念碑。石川真良さんの名前が刻まれている=2月7日、兵庫県西宮市
甲子園球場レフトスタンド裏にある記念碑。石川真良さんの名前が刻まれている=2月7日、兵庫県西宮市
甲子園球場で写真に収まる藤本治一郎さん=1984年、兵庫県西宮市(阪神電鉄提供)
甲子園球場で写真に収まる藤本治一郎さん=1984年、兵庫県西宮市(阪神電鉄提供)
雨の中行われたプロ野球クライマックスシリーズ第2戦の試合途中、グラウンドを整備する阪神園芸のスタッフ=2017年10月、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場
雨の中行われたプロ野球クライマックスシリーズ第2戦の試合途中、グラウンドを整備する阪神園芸のスタッフ=2017年10月、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場
1月に甲子園球場で行われたグラウンドの掘り起こし=1月9日、兵庫県西宮市
グラウンドの「掘り起こし」が行われた甲子園球場=1月9日
インタビューに応じる阪神園芸の金沢健児さん=2023年9月20日、兵庫県西宮市の甲子園球場
試合を前に甲子園球場のグラウンドを整備する阪神園芸の金沢健児さん=2023年9月
石川真良さんが土の研究をしていた頃の建設中の甲子園球場=1924年6月(阪神電鉄提供)
甲子園球場レフトスタンド裏にある記念碑。石川真良さんの名前が刻まれている=2月7日、兵庫県西宮市
甲子園球場で写真に収まる藤本治一郎さん=1984年、兵庫県西宮市(阪神電鉄提供)
雨の中行われたプロ野球クライマックスシリーズ第2戦の試合途中、グラウンドを整備する阪神園芸のスタッフ=2017年10月、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場

 気温4・5度。強い冷え込みとなったこの日、雨への対応力の高さから「神整備」とも称賛される阪神園芸職員らが、真っ白な息を吐きながら黙々と作業を続けた。
 「1年のグラウンドの出来が決まる重要な作業です」。責任者の金沢健児さん(56)が教えてくれた。グラウンドは1年使われるうちに、粒子の細かい土が下に、粗い土が上に集まり、徐々に固くなっていく。毎年この時期に約25センチを掘り起こし粒子の偏りを元に戻すことで、吸水性やクッション性が復活する。「人間でいうと、1年の肩こりをほぐしてあげるようなもの」。
 今年8月に開場100年を迎える甲子園球場では、歴代の「土守」たちが試行錯誤して編み出した技が引き継がれている。(共同通信=白石彩乃、西村曜)
 ▽黒土の発明者
 甲子園球場は1924年に完成した。当時30代で阪神電鉄社員だった石川真良さんがグラウンドの土の開発を任された。石川さんは建設中の球場で、ユニホームを着込みスパイクを履いて滑り込みを繰り返した。グラウンドに敷く土の研究の一環だった。球場の一角に土の配合を変えた十数種類のサンプルを用意。実際にスライディングをすることで、土の硬さや見た目、砂ぼこりの立ち方などを確認する。
 地道な努力の結果、神戸の黒土に、淡路島の赤土を混ぜた配合が生まれた。適度に粘り気を含んだ土で、滑り込んだときにぱっと土ぼこりが舞い、選手の躍動感が強調される。黒っぽい色は、白いボールを際立たせた。
 グラウンドは地中の一番下に石を敷き詰め、その上に小石、さらに砂利を重ねるなど多層構造にすることで水はけを良くしている。甲子園球場は、川をせき止めた跡地に建てられたため、土地を改良する必要があったのだ。
 配合の研究はその後も続き、現在は鹿児島などの土を使っている。試合に敗れた高校球児が持ち帰ったり、雨風で流れたりして少なくなるため、毎年継ぎ足されているという。
 金沢さんは「もしかしたら100年前の土も残っているかも知れません」と笑った。
 ▽甲子園の土守
 石川さんが情熱を注いだグラウンドは、戦争に翻弄された。戦時中の食料不足を補うため芋畑となり、球場内には軍需工場も造られた。空襲にさらされ、ぼろぼろになったグラウンドをよみがえらせたのが、「甲子園の土守」と呼ばれた藤本治一郎さんだった。
 藤本さんの著書によると、1947年1月に米軍から返ってきたグラウンドは「無残な砂漠となっていた」。藤本さんは仲間と一緒に、ツルハシと土をならすトンボを使い、2カ月かけてかつての美しいグラウンドに戻していった。
 高校球児にとって甲子園球場での試合は一生に一度かもしれない。藤本さんは「イレギュラーで勝敗が決まるようなことはさせない」と誓い、整備に妥協を許さなかった。プロ野球選手からも一目置かれる存在だった。土ぼこりが口に入りグラウンドにつばを吐いた阪神タイガースの当時のエース江夏豊投手を叱り飛ばしたとの逸話も残る。
 外野の芝生にもこだわった。冬も鮮やかなゴルフ場のグリーンを見て、「(春先に開催される)選抜高校野球大会も青い芝でできるんやないか」と考え、芝の「二毛作」を始めた。ゴルフ場の担当者に教えを請い、一年中青々とした芝生が生まれるきっかけを作った。
 ▽伝統を受け継ぐ人
 甲子園球場のグラウンドは一見すると平らに見えるが、実はマウンドを頂点に周囲に向かって緩やかに低くなっている。この傾斜によって雨水がグラウンドの周りに流れ出る。地面に埋まる砂利や小石の層も水を吸い込むが、水はけの良さは傾斜の効果も大きい。
 そのため阪神園芸職員は、わずかな傾斜を把握しなければならない。試合中の限られた整備時間で、荒らされた土を元に戻し、傾斜を復元させる。選手が駆け抜けたり、滑り込んだりするベース周りは新人には任せられないベテランの領域だ。
 だから金沢さんは「傾斜が分かるようになるのに10年かかる」と話す。一人前の道は遠い。金沢さんが入社した1988年より前には、新人はトンボを持つこともできなかった時代もあった。金沢さんは、空き時間に投球練習場のマウンド整備で自主練習を重ねたという。
 雨上がりの日はさらに難しい。雨量、やんだ時刻、試合開始までの残り時間を頭に入れ、作業を進める。日々状況が異なり、その都度的確な判断が求められるだけに、積み重ねた経験が重要だ。
 グラウンドと向き合い、数々の職人技を身に付けてきた甲子園球場の土守たち。金沢さんは「われわれも普通のサラリーマン。特別なことをしている意識は持たないようにしている」と語るが、その流れるような作業は野球ファンを魅了してきた。
 その上で「われわれの仕事は完璧なグラウンドを作ることではなく、試合を時間通り始められるよう整えることです」と続けた。

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