テーマ : 読み応えあり

【識者コラム】突如現れた旧軍の病理 小野田元少尉帰国から50年 保阪正康

 今年は太平洋戦争が終わってから79年である。戦争体験世代も少なくなり戦場体験者となると100歳を超える時代に入っているのだから、次代に語り継ぐ人たちも極端に減った。昭和の戦争も「同時代史」から「歴史」の領域に変わっていくと言っていいであろう。

保阪正康さん
保阪正康さん

 同時代から歴史への見方に変わるとはどういうことか。私はよく織田信長の例を出す。同時代人には、延暦寺の焼き打ちまで行う武将であり、その残酷さに恐怖や憎悪があったであろう。
 しかし歴史の解釈では、仏門勢力の正常化や全国統一を目指した武将という比重が重くなる。史実の解釈が論理的になるということでもある。
 太平洋戦争も当事者の意思を離れて「歴史」の解釈に移っていく。特に節目の年はきっかけとなる。今年を例にとれば、小野田寛郎元陸軍少尉の帰国から50年である。
 ▽国論を二分
 1974年3月、小野田元少尉は突然フィリピンのルバング島から日本に復員した。小野田氏は45年の日本降伏後も、3人の日本軍兵士と共に山岳地帯に入り、降伏はデマだ、次の戦争に備え残置諜者として抵抗を続ける任務があると信じ、潜伏したのである。
 以来29年間、小野田氏は仲間が投降・死亡して一人になっても戦い続けた。その間、フィリピン当局や旧日本軍の上官などが、日本の降伏は間違いない、出てこい、と呼びかけたが、説得を謀略と考えてますます密林奥深くに隠れるように潜んでいた。
 しかし戦争を知らない24歳の日本人青年が、密林で野営中に小野田氏と遭遇。小野田氏もやっと自らの誤解に気がつき、日本に戻ることを決意するのであった。
 当然ながら日本メディアは大騒ぎになった。戦争が終わっても戦い続けた精神力に感服する声もあれば、軍国主義の亡霊呼ばわりする声もあった。国論は見事なまでに二分した。フィリピンの人々に多大な迷惑をかけたとの批判も多かった。
 小野田氏自身もメディアの取材攻勢に戸惑い、ブラジルの兄の元で牧場を営んだり、日本で青少年塾を開いたりした。
 経済大国・日本の空気に違和感を持ったということなのだろう。軍国主義に慣れた小野田氏の体質に右派系団体が共感したのか、その流れで活動を続けたこともさまざまな見方を巻き起こした。
 こうした同時代的見方・受け止め方から50年を経たが、歴史的見方では、どのような解釈がされるであろうか。
 ▽教育の誤り
 私見を言えば、小野田氏の帰還は二つの見方で語られていくであろう。第1は「近代史が現代史の中に突如浮かび上がった」ということである。第2は「日本の軍事教育の功罪が浮上した」ことである。歴史的解釈では、小野田氏自身の意思よりも、行動の持つ意味が問われると考える。
 まず近代史(1868=明治元年から1945年8月まで)の軍事主導体制下の人間像が、現代史(45年9月以降)の経済大国に突然出現したということである。
 小野田氏は近代史では模範となるべき人間像である。軍事を全てに優先させ、忠誠心をもってお国に奉公するのが人生の目的なのである。
 現代史では、そうした忠誠心を国は求めていない。私たちは小野田氏を通して、高度経済成長後の社会の中に、近代史のナマの姿を見てしまったのだ。
 私は当時小野田氏を見ていて、ある感慨が浮かんだ。私は昭和史を検証しようと、旧軍人を訪ね、太平洋戦争の実態を確かめようとしていた。
 そうした中でも小野田氏の主張は極論であった。旧軍人たちも終戦から30年近くとなり、あの戦争への反省を口にする時代に入っていた。「小野田氏の不幸は真面目で、極めてストイックに情報将校になろうとしていた点にあるね」と語った旧将官の言葉を、私は忘れないのである。
 これは第2の点とも関わる。小野田氏は情報将校を育成する陸軍中野学校二俣分校を出ている。戦い方は教えられたのであろうが、戦争終結後の国際法、戦時立法の限界などには全く知識を持っていないことも露呈した。例えば戦時の行為は戦後、犯罪になることを知らない。小野田氏に限らず旧日本軍の将校教育の基本的な誤りであったと言うべきであろう。
 50年を経ての歴史的解釈で、私たちは旧軍の病理の姿を再確認すべきだと実感するのである。(ノンフィクション作家)
   ×   ×
 ほさか・まさやす 1939年、札幌市生まれ。同志社大卒。「昭和史を語り継ぐ会」を主宰。昭和史の実証的研究を独自の視点で続ける。2004年に菊池寛賞。著書に「昭和陸軍の研究(上下)」「昭和天皇実録 その表と裏」「ナショナリズムの昭和」(和辻哲郎文化賞)など。

いい茶0

読み応えありの記事一覧

他の追っかけを読む
地域再生大賞