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町絵師が残した「別世界」 忘れられた多様な庶民像 シーボルト発注の人物画

 写真技術がもたらされる前の江戸時代を生きた庶民の姿はどんなものだったのか―。長崎・出島のオランダ商館に駐在したドイツ人医師シーボルトのお抱え町絵師・川原慶賀(1786~1860年代ごろ)の人物画が、シーボルトの来日200周年(2023年)を機に改めて注目されている。葛飾北斎ら同時代の浮世絵師たちの画風とは全く異なり、西洋画の影響を受け写実的だ。専門家は「今とは別世界だった江戸時代を正確に写した貴重な資料」と評価する。

シーボルト研究者の宮坂正英・長崎純心大客員教授
シーボルト研究者の宮坂正英・長崎純心大客員教授
川原慶賀が描いた「鯨取りの漁師」(ミュンヘンの五大陸博物館所蔵、朝日新聞出版提供)
川原慶賀が描いた「鯨取りの漁師」(ミュンヘンの五大陸博物館所蔵、朝日新聞出版提供)
川原慶賀が描いた「キツネ面の男」(ミュンヘンの五大陸博物館所蔵、朝日新聞出版提供)
川原慶賀が描いた「キツネ面の男」(ミュンヘンの五大陸博物館所蔵、朝日新聞出版提供)
シーボルト研究者の宮坂正英・長崎純心大客員教授
川原慶賀が描いた「鯨取りの漁師」(ミュンヘンの五大陸博物館所蔵、朝日新聞出版提供)
川原慶賀が描いた「キツネ面の男」(ミュンヘンの五大陸博物館所蔵、朝日新聞出版提供)

 ▽全身白ギツネ男
 慶賀は江戸時代後期の長崎の町絵師で、鎖国下、シーボルトらによる江戸参府に同行してさまざまな人物を描写。圧倒されるのは多様性にあふれる庶民の姿だ。近年の日本史研究では、士農工商という固定された身分制度は否定され、江戸時代が多様な身分や宗教が混在した社会だったことが分かっている。
 慶賀の絵のうち、全身白ギツネのような格好で歩く「キツネ面の男」を題材にした作品は、稲荷神社に参詣し、油揚げなどをやぶに置いて歩く「寒施行」の姿を描く。
 和歌山や高知のほか、長崎や佐賀などで盛んだった鯨取りの漁師の姿の絵も残る。冬の荒海で鯨に飛び乗って直接、とどめを刺す「羽差」と呼ばれた花形漁師の姿だ。特徴的な長いまげは、海中で力尽きた際に引きあげられやすいように伸ばしていたと伝えられている。
 慶賀の人物画は過去、出版社が発行したが、増刷はなく現在、再販予定はない。長崎純心大でシーボルトを研究する宮坂正英客員教授(69)は「明治以降、西洋化された私たちが忘れ去った日本人の姿を見てもらえたら」と話す。
 ▽日本文化消失を危惧
 シーボルトがオランダ政府から研究費を支給されていたのは、動植物など自然科学分野だ。なぜ仕事目的以外の庶民の姿を描かせたのか―。
 宮坂氏は、シーボルトが家族に宛てた未出版の手紙にある「この文明は早晩なくなるので記録しないといけない」との記述に注目する。
 産業革命を経て圧倒的となった西洋文明の流入が迫る中、シーボルトは、日本独自の文化がなくなることを危惧したとみられる。
 慶賀の晩年は、不遇なものだった。妻と娘2人に先立たれ、そばにいた可能性があるのは画家の息子一人だったようだ。
 長崎奉行所による判決記録「犯科帳」には、日本地図などを海外に持ち出そうとしたシーボルト事件に連座した「罪人」としての慶賀の記録が残っている。外国人スパイに協力した危険人物―。こんな冷ややかな目で見られながら、ひっそりとこの世を去ったとみられている。
   ×   ×
 長崎の絵画 江戸時代、西洋への唯一の窓口だった長崎では、西洋画の影響を受けた写実性のある独特の画風が育まれた。川原慶賀が師事した石崎融思は、門徒約280人を抱える御用絵師で長崎絵画界の巨匠的な存在。舶来の絵を鑑定するという重要な役目を長く務めた。漢画風の写生を基本としつつ、洋画風の風景や人物も描いた。慶賀は、融思の教えを受けた以外にも、シーボルトの求めで出島に来ていたオランダ人画家から写実的な画法を学んだとみられている。

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