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家康の「しかみ像」どうなの? 浜松市博物館でも紹介 三方ケ原の戦い、戒め説は「創作」

 顔をしかめた通称「しかみ像」は、徳川家康が人生最大の敗戦「三方ケ原の戦い」を忘れないよう戒めのために描かせたというのは創作―。しかみ像の定説を覆す新説が近年、主流となっている。作品を所蔵する徳川美術館(名古屋市)や、画像を基にした立体像を展示中の浜松市博物館は、画像と三方ケ原の戦いを関連付ける根拠はないと説明している。

展示中の「立体しかみ像」を鑑賞する親子=3月下旬、浜松市博物館
展示中の「立体しかみ像」を鑑賞する親子=3月下旬、浜松市博物館
展示中の「立体しかみ像」を鑑賞する親子=3月下旬、浜松市博物館

 しかみ像はこれまで、家康が元亀3(1572)年、現在の浜松市が舞台になった三方ケ原の戦いで武田信玄に大敗した後、家臣の制止を振り切って出陣した自身の慢心を忘れないように、みじめな姿を描かせた絵画として知られてきた。失敗を反省し、天下太平につなげた家康の人生譚(たん)の象徴として広く受け入れられてきた。
 新説が浮上したのは2015年度。当時、同美術館職員だった原史彦さん(55)=現名古屋城調査研究センター主査=が口伝とされてきた由来について再調査した。
 しかみ像は紀伊徳川家から尾張徳川家に嫁いだ従姫(よりひめ)の婚礼道具。姫の死後の文化2(1805)年、尾張徳川家の家康遺品の収納箱に納入された。当時の名称は「東照宮尊影」で、戦に関する記述はなかった。ところが明治13(1880)年の目録で、理由は不明だが「長篠戦役陣中小具足着用之像」の副題が加わり、後には「長篠敗戦の像」とされた。
 三方ケ原の戦いとの関連が初登場したのは、明治43(1910)年に出版された家康の九男義直の伝記。義直が父をしのび、自らや子孫を戒めるために狩野探幽に描かせたという説が記された。さらに昭和初期、徳川美術館の開館翌年の新聞で戦との関連が報道された。複数紙に同様の記述があるため、館からの情報とみられる。
 ただ、しかみ像と三方ケ原の戦いを関連付ける史料はなく、原さんは「近代以降の創作であることは明らか」と結論付けた。さまざまな史料から尾張徳川家がしかみ像を家康の肖像画と認識していたことは分かるものの、それ以上の情報は読み取れない。
 原さんは「慢心を戒めるため描かれた姿でないことは確か」としながらも「反省を成功につなげた家康の人生譚が日本人の心に響いてきたことも事実で、これもまたしかみ像の歴史の一部と言える」と話している。
 徳川美術館は説明を変えている。7月23日に始まる特別展「徳川家康 天下人への歩み」(しかみ像の展示は8月31日まで)では、三方ケ原の戦いとの関連については根拠がないと解説する。ただ、名称は「徳川家康画像(三方原戦役画像)」で戦の名前は残っている。戦との関連が広く知られていて、表記しないと何の画像か分かりにくいためだという。
 テーマ展「家康伝承と浜松」(9月24日まで)でしかみ像を基に作成した「立体しかみ像」を展示中の浜松市博物館でも、戦との関連が否定されたという説明を添えている。常設展示の予定はなく、立体像の活用方針は未定。

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