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出奔の石川数正を顕彰? 石川家ゆかりの武将を描いた「家康及徳川十六将図(元文四年)」(久能山東照宮博物館)【徳川十六神将⑤】

①「家康及徳川十六将図(元文四年)」(久能山東照宮博物館蔵)
①「家康及徳川十六将図(元文四年)」(久能山東照宮博物館蔵)
②「家康及徳川十六将図」(伝狩野探信)(久能山東照宮博物館蔵)
②「家康及徳川十六将図」(伝狩野探信)(久能山東照宮博物館蔵)
③「家康及徳川十六将図」(久能山東照宮博物館蔵)。作者、制作時期、描かれた武将名はいずれも不明。
③「家康及徳川十六将図」(久能山東照宮博物館蔵)。作者、制作時期、描かれた武将名はいずれも不明。
①「家康及徳川十六将図(元文四年)」(久能山東照宮博物館蔵)
②「家康及徳川十六将図」(伝狩野探信)(久能山東照宮博物館蔵)
③「家康及徳川十六将図」(久能山東照宮博物館蔵)。作者、制作時期、描かれた武将名はいずれも不明。

 徳川家臣団から16人を選抜した「徳川十六将図」。久能山東照宮博物館(静岡市駿河区)の戸塚直史学芸課長(37)に所蔵する3点の顔触れを聞いた。中でも、出奔した石川数正をはじめ石川家ゆかりの武将が多く描かれた一風変わった十六将図についても解説してもらった。
Q描かれている武将の顔触れが違う。
 「久能山東照宮博物館所蔵の3点のうち、武将名が分かっているのは①②の2点。②のメンバーを描く絵図が多い。徳川四天王(酒井、本多、榊原、井伊)以外は比較的認知度が低いが、彼らは「十六神将」とも呼ばれ、他の家臣とは一線を隔した武将とされる。当初の十六将図は顕彰の意味が強かったが、 時代を経ると市中での人気画ともなっている」
Q十六将図はいつから制作されたのか。
 「発生は定かではないが、1600年代前半とされる作もあり、江戸中期から後期には広まっていたようだ。初期の作品には狩野派の絵師が関わっていることが多く、大名家や身分の高い武士の依頼で描かれたと推測される。
 寛永18(1641)年から幕府が「寛永諸家系図伝」作成に乗り出し、大名家が自家の由緒を再確認する機運が高まっていた。また同時期は家康公の神格化も進んだ。十六将図の作成が、神君となった家康公と共に創成期に尽力した祖先の顕彰や、自家のアイデンティティー形成にもつながっていたと考えられる」
Q①の武将は定番の顔触れとは異なる。
 「徳川四天王と、平岩親吉、大久保忠世、鳥居元忠、松平家忠は定番だが、他8人は石川家か同家ゆかりの武将が選ばれている。絵図の依頼主・長谷川忠崇と石川家の間に何らかの縁があったのではないかと推測できる」

「家康及徳川十六将図(元文四年)」に描かれた石川家ゆかりの武将
石川数正(いしかわ・かずまさ)(?~1593)
 家康が駿府の今川氏の元で過ごした幼少期から付き従った重鎮。家康の三河での独立後に駿府に取り残された正室・築山殿や嫡男・信康奪還の折衝役を務め、西三河衆をまとめる旗頭となった。織田信長が横死した「本能寺の変」後の命懸けの帰還「伊賀越え」や、秀吉との対決「小牧・長久手の戦い」など、老臣として数々の戦や外交で活躍。しかし突如、城代を務めていた岡崎城を出て秀吉に走った。
 出奔の理由については、秀吉に懐柔されたとする説、徳川家臣団内部での外交路線の対立とする説、秀吉政権下での徳川家維持のためとする説など、諸説ある。小田原攻めの後は、信濃・松本城主となった。
 こうした動きは当然、徳川家臣からは不評だった。家康重臣・井伊直政は、主君の家康に背いた「大臆病の男」と批判。都の風刺では、数正の通り名「伯耆守(ほうきのかみ)」と「箒(ほうき)」を掛けて「家康のはき捨てられし古箒都へ来ては塵ほどもなし」と中傷されていたと伝わる。新井白石による家伝集「藩翰譜(はんかんふ)」には、出奔は「一生の功を空しくし、上は祖父の名を穢し、下は子孫の家を滅し」と記されている。
大須賀康高(おおすが・やすたか)(1527~1589)
 元は酒井家家臣だったが、娘婿の榊原康政と共に家康公直臣となった。数正や石川家成と共に遠江国内で活躍した。特に武田家配下の高天神城の奪還では、横須賀城を築いて武功をあげ、横須賀衆としても各地で活躍した。掛川市の撰要寺(せんようじ)に墓所がある。
石川家成(いしかわ・いえなり)(1534~1609)
 数正の叔父。西三河衆の旗頭だった。戦国大名の今川滅亡後は西三河を数正が継ぎ、家成は掛川城の城将となった。
松平信一(まつだいら・のぶかず)(1539~1624)
 西三河衆として数正の旗下となった。娘は石川家成の養子に嫁いだ。早くより家康に仕え、足利義昭の上洛に際しては、三河からの援兵の首将として織田軍と共に活躍した。関ケ原合戦では常陸国・佐竹家の抑えとされ、別動隊を任せられた。
松平(松井)康親(まつだいら・やすちか)(1521~1583)
 始めは松井忠次と名乗り、数々の戦役で武功を立てた。特に武田家との争いでは牧野城(現島田市)を7年守り、駿河侵攻でも活躍した。後年には対北条家の備えとして三枚橋城(現沼津市)に入り、駿河国河東にて領地を得た。
本多康孝(ほんだ・やすたか)
 「寛政重修諸家譜」には名前は見えない。本多豊後守広孝を示している可能性もある。広孝の子・康重の室(妻)は石川家成の娘。
本多忠次(ほんだ・ただつぐ)(?~1612)
 三河の吉田城攻めをはじめ、姉川の戦いや長篠の戦いに参加。高天神城(現掛川市)落城の際には、多数の首を討ち取ったと伝わる。家康二女・督姫が北条家に輿入れする際に供奉した。
植村家政(うえむら・いえまさ)(1541~1577)
 家存(いえさだ)とも名乗った。「寛政重修諸家譜」には「東照宮三河国に御座の時、酒井忠次石川家成同数正とともに家老職となり」とある。子女は石川一族の石川康通の室(妻)となっている。

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