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遠江の要衝「高天神城」ってどんな城? 戦国の雄たちが激しく争奪 今川→徳川→武田→徳川→武田→徳川 支配者目まぐるしく変遷

高天神城を南側から見たCG画像(掛川市文化・スポーツ振興課提供)
高天神城を南側から見たCG画像(掛川市文化・スポーツ振興課提供)

複雑な地形生かした難攻不落の山城
 高天神城は遠江を支配した徳川・武田の戦国の英雄が攻防を繰り広げた要害堅固な山城。掛川市のほぼ中央にある小笠山から南東に伸びる鶴翁山(かくおうざん、標高約130メートル)に築かれた。南、北、東側は切り立った崖、西側は緩い斜面となっている。東峰と西峰がそれぞれ独立した曲輪から成る「一城別郭(いちじょうべっかく)」と呼ばれる構造。山の尾根を削ったり土を盛ったりして、曲輪や堀が築かれた。
 城郭から周囲を広く見渡せたほか、駿河から小山城(吉田町)や滝境城(牧之原市)、塩買坂(菊川市)を経て高天神城付近を通過すると、浜松方面に抜けることができた。そのため東海道以外の東西ルートに位置した戦略的な拠点で「高天神を制するものは遠江を制す」とも言われた。 photo03 史跡の高天神城跡。石段や未舗装の山道を登ると、遺構を見学できる=掛川市上土方嶺向
 築城者や築城時期は諸説あるが、1500年代初頭の史料から今川の家臣・福島助春(くしま・すけはる)が在城していたことが分かっている。現在、城の西の丸に鎮座する高天神社のご祭神は「高皇産霊命(たかみむすびのみこと)」「天菩比命(あめのほひのみこと)」、天神様で知られる「菅原道真公」。城の名前はご祭神に由来しているとされる。
 現在の城跡は国の史跡に指定され、杉やヒノキが茂る森の中に堀や土塁の遺構が残る。探鳥スポットとしても知られていて、日本野鳥の会遠江の増田裕代表によると、夏はキビタキ、オオルリ、ホトトギス、冬はシロハラ、アカハラ、ツグミなどの声を楽しめる。

籠城衆は壮絶な討死 武田の面目失う落城 photo03 徳川家康による高天神城包囲網図(掛川市観光交流課発行「高天神城読本」より)
 遠江を支配していた今川氏は永禄3(1560)年、今川義元が織田信長に討たれた「桶狭間の戦い」を機に弱体化。今川から独立した徳川家康が勢力を伸ばし、高天神城主の今川家臣・小笠原氏興(うじおき)、氏助=後に信興(のぶおき)と改名=父子は徳川方に転じた。家康が武田信玄に大敗した元亀3(1572)年の遠江侵攻で信玄に降伏した説がある。信玄の死後は再び徳川方へ転じた。
 信玄の遺志を継いだ武田勝頼は食料や軍需品の補給拠点として諏訪原城(島田市)を築城した後、天正2(1574)年に2万超の大軍で高天神城を包囲した。家康は織田信長に援軍を要請したが間に合わず、武田方の猛攻と調略で開城。高天神城は勝頼の手に落ちた。
 一方、翌年の天正3(1575)年に織田・徳川軍が武田軍に大勝した「長篠の戦い」以降、家康は城の奪還を進めた。諏訪原城を攻略後、高天神城の西方約10キロに横須賀城を築城。「高天神六砦」(小笠山、能ケ坂、火ケ峰、獅子ケ鼻、中村、三井山砦)をはじめ20カ所を築き、高天神城の補給路を寸断した。
 武田軍は北条との同盟決裂もあり、次第に後方からの支援が滞った。天正9(1581)年、城主岡部元信は降伏を申し出るも、織田・徳川方は拒絶。攻撃に打って出た籠城衆約730人は、ほぼ全員が壮絶な討ち死にを遂げた。
 信長が家臣・水野忠重に宛てた書状によると、勝頼が援軍を出す余力はないことを信長は見抜いていた。また、勝頼が高天神城を見捨てたとなれば遠江、駿河を支えきれなくなることを見越した上で、降伏を受けるか受けないかは家康と家臣が話し合って決めるよう伝えていた。
 首実検の後、家康は高天神城を焼き払い、廃城となったと伝わる。城の二の丸の調査からは、礎石が火を受けた痕跡も見つかっている。信長の生涯を記した史料「信長公記」には、高天神城を救えなかったことで勝頼が天下の面目を失ったと記されている。武田方家臣の離反が相次ぎ、高天神城落城の翌年の天正10(1582)年に勝頼は自害して武田氏は滅亡した。

高天神城に伝わる逸話 photo03 大河内正局が幽閉されたと伝わる石窟=掛川市の高天神城跡
■決戦直前 今生の思い出の舞
 江戸時代中期の史料とされる「明良洪範(めいりょうこうはん)」には、籠城衆の栗田刑部が徳川方に舞の名手がいることを知り、「今生の思い出にせん」と、語りを伴う舞「幸若舞(こうわかまい)」を所望。籠城衆の覚悟を知った家康が舞を認め、代表曲「高館(たかだち)」を舞わせた逸話が記されている。
■忠義者が幽閉された大河内石窟
 地元の伝承によると、天正2年に勝頼が高天神城を制した際、家康家臣の大河内正局(おおこうち・まさちか)は武田方に降らなかった。勝頼の怒りを買い、正局は奥行き2メートル、横幅3メートルほどの石窟に幽閉された。過酷な環境だったが、武田方の家臣が忠義に打たれてひそかに支援。天正9年に家康が城を奪還すると、正局を救出し、恩賞を与えたという。2010年の台風で土砂が崩れ、石窟は埋まってしまった。
■孕石元泰の切腹
 徳川家康が駿府の今川の元にいた頃、隣家に住んでいた今川の家臣・孕石元泰(はらみいし・もとやす)は、家康のタカが度々屋敷に入り込んだことをののしっていたとされる。今川滅亡後に武田に仕え、高天神城内に籠城していたが、落城の際に家康により切腹させられたと伝わる。

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