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家康の側室 阿茶局ってどんな人? 浜松の観梅デートで愛深め、駿府大御所時代まで家康の側に 「大坂の陣」和睦で活躍の才知の女性

阿茶局の生涯 阿茶局の肖像画(雲光院提供)
 阿茶局(あちゃのつぼね)は、弘治元(1555)年生まれ。甲斐の武田氏家臣だった飯田直政の娘。名前は須和。駿河の今川氏家臣の神尾忠重と結婚するも、忠重が死去し、寡婦となった。
 徳川家康との出会いの時期には諸説ある。史料「玉輿記」などには、天正10(1582)年、武田氏の旧領を巡る争いで家康が甲斐・信濃へ侵攻した際に出会い、幼少時代に駿府にいた際に「御好み」だったことを思い出して、母子ともに仕えさせたと記されている。浜松市内に残る史料「鈴木氏系図」には「三方原御陣の折、アチャの局を預かり申しおり」と、元亀3(1572)年の三方ケ原の戦いの時と読める記述もある。
 阿茶局と名乗るようになり、家康に従ってさまざまな陣に供に出向いた。天正12(1584)年に家康と豊臣秀吉が対決した「小牧・長久手の戦い」の戦場で流産したと伝わる。家康との間には子どもに恵まれなかったが、側室の於愛の方の死後は秀忠と忠吉を養育。信頼が厚く、家庭内の仕事を任された。多くの側室の中には家康と死別したり離れて暮らしたりした女性もいたが、阿茶局は大御所時代も駿府城で暮らし、家康の晩年まで公私ともに支えた。
 政治・外交面でも活躍し、異彩を放った。家康が秀吉側室の淀殿と子の秀頼を滅ぼした「大坂の陣」を巡っては、きっかけとなった「方広寺鐘銘事件」の際、豊臣方の使者が駿府(現静岡市葵区七間町)で阿茶局と面会して謝罪したと伝わる。史料「譜牒余録」によると、慶長19(1614)年の「大坂冬の陣」では、阿茶局が和睦の使者として大坂城中に出向いた。このほか、さまざまな史料から、家康と大名の取り次ぎなどで敏腕をふるった様子が読み取れる。
 家康死後、側室たちが髪をそり仏門に入る中、家康の命令で阿茶局は剃髪(ていはつ)が許されなかった。2代将軍の秀忠の娘和子(まさこ)が後水尾天皇に嫁ぐ際には、母親代わりとして上洛(じょうらく)。出産の際も支え、同天皇から日本の位階「従一位(じゅいちい)」の位が与えられた。寛永14(1637)年に83歳で死去。菩提(ぼだい)寺「雲光院」に葬られた。
(玉輿記、柳営婦女伝系、幕府祚胤伝などを基に作成)
浜松時代に過ごした旧庄屋「鈴木家屋敷」 民の熱意でレストラン・公園として活用 「鈴木家屋敷」を改修して、開業したレストラン「鈴松庵」=浜松市東区中郡の万斛庄屋公園内
 家康は浜松城にいた頃、万斛村(まんごくむら)の庄屋・鈴木権右衛門(ごんえもん)の屋敷に阿茶局を預けていた。村の名前が生産性を意味する「万石」を連想させるとして気に入ったと伝わる。
 家康は阿茶局に会うため鈴木家屋敷をしばしば訪れ、阿茶局は家康に地域の情報を伝えていたという。地元の伝承によると、2人は地域の古刹(こさつ)「甘露寺」の梅を観賞し、愛を深めた。寺には「未開紅甘露梅」(いまだひらかずかんろのこうばい)と、家康が開花を心待ちにしていた言葉が伝わっている。
 鈴木家屋敷は2度の火災に見舞われ、阿茶局が起居したとみられる御殿は今は残っていない。現在は、浜松市東区中郡町の「万斛(まんごく)庄屋公園」(面積1万4000平方m)内に、明治期以降の建造とみられる母屋、離れ、弓道場が残る。
 地権者から浜松市に寄付された土地と建物は、老朽化により撤去案も一時浮上したが、地元有志でつくるNPO「旧鈴木家跡地活用保存会」が保存活用に向けた活動を展開。これにより市はパークPFI(公募設置管理制度)で民間事業者を公募し、地元の電気設備工事業「松川電気」が私費を投じて元の部材や建具を生かす形で建物を改修してフレンチレストラン「鈴松庵(れいしょうあん)」を開業。建物の一部は自由な活動の場として住民に貸し出している。
 浜松市は同公園整備を進めていて、2024年春までに家康と阿茶局の伝承にちなんで公園内に梅十数本を植える予定。多世代の交流の場としての活用が活発化している。

家康がよく分かる 正室・側室/人柄/戦い
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