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徳川四天王より上に描かれることも… 十六将図の謎の人物「松平甚太郎康忠」いったい誰?【徳川十六神将④】

松平甚太郎康忠(「家康及徳川十六将図」=伝 狩野探信=久能山東照宮博物館蔵をトリミング)。付属の木箱の人物名記載では赤字で「康」が「家」と直されている
松平甚太郎康忠(「家康及徳川十六将図」=伝 狩野探信=久能山東照宮博物館蔵をトリミング)。付属の木箱の人物名記載では赤字で「康」が「家」と直されている

 徳川家臣団を描いた「徳川十六将図」。今回は図の最上段に描かれることが多い「松平甚太郎康忠(まつだいらじんたろうやすただ)」を掘り下げる。徳川四天王より上位に描かれているにもかかわらず、通常の呼び名「通り名」の甚太郎、普段は使われない名前「諱(いみな)」の康忠の両方が一致する人物は、現在まで特定されていない。どの人物である可能性が考えられるのか。それらはどういった人物なのか。3種類の十六将図を所蔵する久能山東照宮博物館(静岡市駿河区)の学芸課長・戸塚直史さん(37)に聞いた。
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 候補として挙げられるのは、通り名「甚太郎」が一致する松平甚太郎家忠と、諱「康忠」が一致する松平源七郎康忠。また諱は「家忠」と書かれたものあり、功績が多い松平又八郎家忠や松平左太郎家忠の可能性も考えられる。家康四男の松平忠吉の後見役となった、東条松平家の中核をなした松平(松井)左近康親が松平甚太郎家忠と混同して描かれている可能性もあるのではないか。
 

 江戸幕府編集の家譜集「寛政重修諸家譜」に基づく、5人の功績は以下の通り。

松平甚太郎家忠(まつだいらじんたろういえただ)弘治2~天正9年(1556~1581年)
 東条城を居城とし、東条松平氏と呼ばれた。跡継ぎがなく、遺領は家康四男忠吉に与えられた。
 ※松平忠吉は慶長12(1607)年に28歳にて亡くなっている。家康の子供で松平姓は六男の忠輝の2名となるが、忠輝は改易となったので、家康の子どもが継いだ松平家は東条松平家のみとなる。

松平源七郎康忠(まつだいらげんしちろうやすただ)天文15~慶長8年(1546~1603年)
 三河国長沢村を拠点にした長沢松平家の出身。妻は家康の異母妹・矢田姫。家康の今川からの独立時期から戦に出陣した。織田・徳川軍と朝倉・浅井軍が対決した「姉川の戦い」で戦功を挙げ、信長から刀を下賜された。織田・徳川軍が武田勝頼に大勝した「長篠の戦い」では酒井忠次とともに鳶ケ巣山奇襲作戦に加わり、勝利に貢献。天正9(1581)年の高天神城(現掛川市)攻略では大手櫓に火を放ち、本能寺の変により家康が命懸けで帰郷した天正10(1582)年の「伊賀越え」にも付き従った。狩りの最中、家康の近くに野生のイノシシが来た際に素早く刺殺し、名馬を与えられた。

松平又八郎家忠(まつだいらまたはちろういえただ)弘治元~慶長5年(1555~1600年)
 三河国深溝城を拠点にした深溝(ふこうず)松平家の出身。家康存命時の貴重な史料として知られる「家忠日記」の作者でもある。
 天正3(1575)年の「長篠の戦い」以降、二俣城(現浜松市天竜区)、諏訪原城(現島田市)、小山城(現吉田町)攻めなどに参加。城や砦の普請でも能力を発揮し、浜松城(現浜松市中区)や駿府城(現静岡市葵区)普請に尽力した。
 高天神城奪還のための「六砦」として知られる中村砦や獅子ケ鼻砦の構築にも携わった。文禄3年の豊臣秀吉の伏見城築城時には「成功抜群」として秀吉から帷子や羽織を下賜された。天下分け目の「関ケ原の戦い」の前哨戦とされ、徳川重臣が守る城に西軍が攻め寄せた「伏見城の戦い」で城を枕に討ち死にした。

松平左太郎家忠(まつだいらさたろういえただ)?~天正10年(?~1582年)
 三河国形原を拠点にした形原(かたのはら)松平家の出身。家康の今川からの独立時から、織田信長死後の旧武田領を巡る戦いまでの数々の戦に赴いた。家康の遠江平定時期には、籠城から開城に転じた今川氏真を伊豆国の戸倉まで送り届け、馬伏塚城(現袋井市)の要害守備も任された。

松平(松井)左近康親(まついさこんやすちか)大永元~天正11年(1521~1583年)
 東条松平の祖・松平義春の討死の際、その嫡子(松平甚太郎家忠)が幼かったため、縁者である康親が家老となり東条松平の兵を司った。織田との同盟前の戦いから活躍。銃弾が目に当たってもひるまず敵を討ち取った―、自らの左手を射抜いた矢を抜いて敵を射殺した―など勇猛さを伝える多くの逸話が残る。松井忠次と名乗っていたが、功績により家康から「康」の字をもらい「松平」を名乗ることも許された。武田との戦いでは遠江の要衝・高天神城への要路にあった牧野城(旧諏訪原城)を勝頼から7年間守り抜いた。
 天正9(1581)年に東条松平家の松平甚太郎家忠が死去し、家康四男の忠吉が後を継いだ際は後見役を務めた。北条への備えとして築かれた三枚橋城(現沼津市)に入った。
 ※諸家譜の中では東条松平家活躍の詳細は康親の項に多く書かれている。

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