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徳川家康の駿府城 天守ない理由は? 復元の動き紆余曲折 遺構の保存と活用どう両立

 大御所・徳川家康の終[つい]の棲家[すみか]「駿府城」。城跡の静岡市葵区の中心地には現在、駿府城公園が整備されているが、城の象徴の天守は見当たらない。近年、城の再現に関する文化審議会の基準が緩和され、各地では天守復元を目指す動きも話題となるが、過去に同様の動きがあった駿府城の現状は。歴史をひもとき、課題を探った。 静岡市歴史博物館所蔵の「東海道図屏風 マッケンジー本」(部分)。駿府城の天守が描かれている  〝象徴〟なぜない
 家康は生涯で2回、駿府城を築いた。1回目は天正13(1585)年の5カ国大名時代。2回目は慶長12(1607)年の大御所時代で、天正期の天守や石垣を一部壊して城を拡張した。家康が住み始めて間もなく御殿の失火で城は焼失したものの、すぐに再建が進められ、慶長15(10)年に天守が完成した。
 しかし、この天守も家康死後の寛永12(35)年、城下の火災により焼失。御殿や城門などが再建された一方、天守は再建されず、天守を載せる石垣の土台「天守台」のみが残った。既に太平の世で権力を示す天守は不要となったとする説のほか、幕府の財政難を理由とする見方もある。
 天下人家康の権力の象徴である天守はわずか25年間で姿を消したため、実在時の史料はほぼなく、その姿は特定されていない。天守が描かれた屏風[びょうぶ]や絵巻は複数あるが、外観はそれぞれ異なっている。  実現の道遠く
公開中の慶長期の天守台(手前)。現場では天正期の天守台も見学でき、今夏までの来場者数は86万8千人に上った=静岡市葵区の駿府城公園(静岡市提供)
 天守復元を巡る動きには、紆余[うよ]曲折があった。1990年代には機運が高まり、静岡市教育委員会が基礎史料の調査収集を行ったが、復元につながる史料は発見されなかった。2000年代にも大御所家康入城400年で注目され、学識者らによる「天守閣建設可能性検討委員会」が設置された。だが、同委員会は史料不在を主な理由に「現時点においては天守閣復元を行うべきではない」とした。
 2010年代には第3次市総合計画(15~22年度)に「駿府城天守閣の再建を目指し」という文言が登場。ところが現在進行中の第4次市総合計画(23~30年度)では天守台野外展示事業こそ記載されているものの、天守そのものについては触れられていない。
 市は天守復元を目指すことをやめたのか。市歴史文化課は「やめたわけではない」と説明する。3次総と4次総の内容変化の背景には、天守台発掘調査(16~19年度)がある。発掘された天守台の石垣には割れやひびが確認されたため、天守台保存・修復が目の前の課題として浮上したというわけだ。
 同課によると、発掘調査以降は石の接着、表面の強化、撥水[はっすい]処理などの効果検証を実施。現在は天守台の保存計画作成とともに、野外展示環境の整備を進めているという。  今後の課題は
 全国に視点を移すと、家康が西方への押さえとして築いた名古屋城では現在、慶長期を含む石垣の上に天守を復元する計画が進む。また文化審議会は2020年、歴史的建造物復元などの新基準を決め、史料が十分そろわない場合でも多角的に検証して遺跡上に建築物を再現する「復元的整備」を可能とした。
 翻って、頓挫を繰り返してきた駿府城の天守復元で今後考えられる課題とは。同課によると、そもそも天守台が完全な状態で残っていない。慶長期の天守台は高さ約20メートルとされるが、明治期の陸軍設置に伴い上部が壊され、最も高い部分でも約5メートルしか現存していない。石を積み増したり天守を載せる場合には、現存部分の保存との両立が求められる。
 また、時代が異なる複数の遺構の重なりも事態を複雑化させている。慶長期の城の場所は天正期の城と、さらに時代をさかのぼった今川の本拠地とも重なると推定される。いずれかの復元は、他期間の遺構を埋もれさせるリスクがある。
 これまでの復元断念の主因だった城の姿を特定する史料の不足も未解決のまま。大型事業を複数抱える市の財政や、過去の調査で賛否が分かれた市民の合意形成も課題となりそうだ。

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