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【詳報】本当にあった?なかった? 関ケ原の戦いの帰趨決した「小山評定」 静岡大・本多隆成名誉教授に聞く

 徳川家康と豊臣恩顧の武将らが1600(慶長5)年7月25日に協議し、謀反の疑いのある会津の上杉景勝征伐よりも、上方で挙兵した石田三成の征伐を優先すると決めたとされる軍議「小山評定(おやまひょうじょう)」。豊臣諸将の動向はその後、天下分け目の「関ケ原の戦い」の勝敗を決定付けたため、歴史的意義の大きい軍議として知られる。
 ところが、この小山評定が本当に行われたのか否かが近年、研究者の間で論争となっている。存在の肯定説を取る静岡大の本多隆成名誉教授(80)=戦国史・近世史=に通説、自身の考え、論争の論点を聞いた。 小山評定跡石碑(小山市教育委員会提供) 通説とは 福島正則や山内一豊(掛川城主)の逸話が有名
 「小山評定」は栃木県小山市で行われた家康と豊臣恩顧の諸将による軍議。謀反の疑いがある会津の上杉景勝征伐のため宇都宮に向かっていた諸将を、家康が小山に呼び寄せて今後の方針を協議したーというのが通説だ。
 清須城主の福島正則が、豊臣秀頼に害がないのであれば家康の味方になって三成を討つと表明。掛川城主の山内一豊が掛川城を開き、二心のない証拠として人質も差し出すと家康に申し出た逸話で知られる。これにより家康と諸将は会津攻めから反転、三成征伐のために西上することを決めたとされ、東海道筋の城には家康家臣が入ることになった。9月15日の「関ケ原の戦い」では秀忠が率いる徳川主力軍が遅れ、西上した豊臣系諸将の働きが勝利に貢献した。結果的に、小山評定は関ケ原の戦いの帰趨(きすう)を決定づけたと言え、歴史的意義の大きい軍議と位置づけられる。


本多氏の見解は 複数史料と状況から「評定はあった」

 7月25日に「小山評定」があったと断定する史料は見つかっていない。しかし、1600年7月下旬~8月などの史料から以下の①~⑥が読み取れ、当時の状況も勘案すると評定は実在したと考えられる。(下の矢印ボタンで史料を切り替えられます)

 
 

 ①の浅野幸長書状には、家康と諸将が上方対応について話し合ったことが記されている。書状のやりとりの日付から、7月下旬のいずれかに幸長が小山にいたことが読み取れる。「小山評定」から30年余り後に書かれたものではあるが、参加者本人である宮部長煕が記した②は、家康により諸将が小山に集められて対応が決まったと記している。

 この他の書状からも、福島ら豊臣恩顧の諸将が家康に三成征伐を進言したこと、家康が7月下旬~8月上旬に小山にいたことが分かる。③④は家康本人、⑤⑥は当時敵対していた家康の動向を注視していた上杉方の書状で、家康の居場所について信ぴょう性は高いと考えられる。

 近年、家康は江戸から出馬後、ずっと宇都宮にいたとする宇都宮在陣説も提唱された。しかし、家康が先発した秀忠を追い抜いて宇都宮に到着するとは考えにくい点や諸史料の記述から、家康は宇都宮には行かず、ずっと小山にいたと考えている。


存否論争とは 正則宛の家康書状の解釈で見解が二分

 「小山評定」の存否論争は多岐にわたるが、主な論点は「福島正則宛徳川家康書状写」の解釈だ。これは、家康が豊臣恩顧の大名の正則に送った書状。会津攻めの出陣の苦労をねぎらいつつ、上方の三成らが挙兵したうわさを示し、正則に家康の元へ来るように伝える内容だ。史料の写ししか残っていない上、複数の史料によって日付と軍勢(人数の儀)の扱いの表記が異なり、論争の一因となっている。(下の矢印ボタンで史料を切り替えられます)

 

 小山評定の存在否定説では、史料Aを採用。評定のあったとされる日より6日早い19日に、家康は正則の軍勢に「西上」を命じていると解釈し、正則は参加していないとして家康と諸将が対応を協議した小山評定の存在を否定。史料Bは幕臣が記した歴史書で、家康の偉業美化のため、小山評定が実在したように見せようと書状の内容を改ざんしている―と主張した。

 一方、小山評定の存在を肯定する研究者は複数いる。私はその中の1人で、史料Bを採用。会津攻めのために宇都宮に向かっていた正則に対して評定前日の24日、軍勢を止め、正則自身は家康のいる小山まで来るよう伝えた内容ととらえ、評定は実在した―と見る。

 家康と正則ら豊臣系諸将との間には主従関係はなく、今後の方針決定には同意と納得を得る必要があった。他の史料から、豊臣系諸将の西上が26日から組を分けて一斉に始まっており、東海道筋の城への家康家臣入城も8月半ば過ぎには実現している。

 また、他の史料から西上時に正則と行動を共にしていたことが分かる徳永寿昌(徳法印)が、史料Aでは正則に同行するどころか、黒田長政とともに江戸にいる家康の元へ呼び戻す役割を担っているという矛盾も生じる。いずれにしても、史料Aを採ると矛盾を生ずることが多く、史料Bの方がはるかに当時の状況と整合性があるといえよう。

本多隆成氏  

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