テーマ : どうする家康/徳川家康

大自在(7月28日)火薬の平和利用

 日本で最初に花火を観賞したのは徳川家康で、大御所として君臨した1613(慶長18)年、駿府城で見たという確かな記録がある。書籍を数冊拾い読みすると、披露したのは中国人とも英国人とも書かれていたが、「英国王の使節を案内して来た中国の商人」ということらしい。410年前の国際都市のにぎわいが浮かぶ。
 この時の花火は竹筒に黒色火薬を詰め、火の粉を噴き出す形式だった。家康は喜び、三河の鉄砲隊に観賞用花火を製造させた。手筒花火が東三河や遠州で継承され、「静岡まつり」でも披露される経緯を知った。
 歴史をもう少しさかのぼると、1543年の鉄砲伝来とともに火薬も持ち込まれ、戦が変容した。天下人となった家康は火薬の平和利用の道を開いたということか。太平の世で花火見物は庶民の楽しみになった。
 一方で火災も多発し、規制やたびたびの禁止令で花火師や技術が江戸から地方に移転したのだという。コロナ禍を挟んで再開した各地の花火大会のルーツが駿府にあると思うと誇らしい気にもなる。本県の花火の出荷額は全国トップクラス。有数の花火どころである。
 「花火は平和の象徴」「火薬は戦争ではなく平和のために」と言われる。だが、地球規模では、道半ばと言わざるを得ない。
 兵器と平和利用のもろ刃の剣という点は原子力も同じ。ロシアの権力者は核使用をちらつかせ、占拠した原発に爆発物のような物体を置いたとも伝えられた。夜空を彩る大輪も鳴り響く音も、かなたのウクライナの空を思うと胸のつかえを禁じ得ない。

いい茶0

どうする家康/徳川家康の記事一覧

他の追っかけを読む
地域再生大賞