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徳川頼宣と忠長 2人の駿府藩主 「後の名君」と「ヒール役」

 現在の静岡県中西部を中心とした江戸期の駿府藩には徳川家康が1616年に死去した後、幕府直轄領となる32年ごろまでの間に、2人の藩主が存在した。一人は後に「御三家」の一つ紀伊徳川家の祖となり、死後は名君「南龍公」とたたえられた家康十男の徳川頼宣(1602~71年)。もう一人は三代将軍家光の実弟として大藩を預かりながら、乱行を繰り返したとして責めを負い自害した徳川忠長(1606~33年)。短命に終わった駿河徳川家を治めた2人の業績を追った。(教育文化部・マコーリー碧水)

頼宣 紀伊徳川家の祖、「南龍公」

photo03 徳川頼宣の言葉を刻んだ「立志の碑」=浜松市中央区の市立舞阪中
 「十四歳が二度あるか」。浜松市中央区の市立舞阪中の正門近くに立つ「立志の碑」に彫られているのは、1615年大坂夏の陣で頼宣が放った言葉とされる。 頼宣は02年に生まれ、14年の大坂冬の陣で初陣を迎えた。翌年の夏の陣で血気盛んな頼宣は先陣を希望するも拒まれた。周囲が「次もある」となだめたときに出たのが「立志の碑」の一言だ。家康は頼宣の強い闘志を褒めたたえたという。
 14歳の頼宣は、すでに駿府藩主の座にあった。05年に将軍職を二代秀忠に譲り始まった家康の大御所時代。家康は07年に駿府城へと移るが、09年に頼宣へと駿河・遠江の2カ国50万石を与えた。以後約10年間にわたり頼宣は駿府藩の主であり続けた。実権は家康が握っていたにしろ、大御所時代の大部分で名目上の領主は頼宣だったのだ。
 立志の碑建立当時の舞阪中学校誌によれば同校PTAが石碑を建てたのは1982年。碑の言葉は当時の校長がたるみがちな2年生に向けて選んだという。しかし頼宣が駿遠を治めたことについては記述がない。同校の松下宏幸教頭は「地元の殿様と知らずにたまたま選んだようで」と笑った。
 静岡市葵区の駿府城公園内にある「家康手植のミカン」について、紀伊へ移った頼宣が贈ったものという説がある。だが、頼宣の国替えは家康の死から3年後。1619年、二代将軍秀忠の命で紀伊55万石へと移封された。
 市歴史博物館の広田浩治学芸課長によると、当時の紀伊は水運上重要な地域であり、徳川に親しい大名の少ない西国の最前線でもあった。駿府では家康の陰に隠れ、独自の業績や藩政の意図が見えない頼宣だが紀伊では重責を全うし、紀州ミカンの栽培を奨励し殖産に努めるなど名君と呼ばれたという。

忠長 家光の実弟、悪評多く最後は自害

photo03 徳川忠長像(群馬県高崎市の大信寺蔵、同寺提供)
 頼宣が去った後、5年間の幕府直轄を経て、駿府藩主になったのが徳川忠長だ。駿遠など50万~55万石を与えられた。
 忠長は20歳で駿府に移るまでは甲斐などを治めていた。1625年に駿府に入り、翌26年には尾張徳川家や紀伊徳川家の藩主に並ぶ官位である大納言へと昇進し「駿河大納言」と称された。とんとん拍子の出世について静岡市歴史博物館の増田亜矢乃学芸員は「大御所となった秀忠が、三代将軍家光の後援体制を実弟の立場を上げることで強化しようと考えたのでは」と推測する。
 藩主としての忠長の記録は少ない。久能山東照宮(同市駿河区)の神庫の修繕など善行の一方で、悪評も多く残る。「江戸の防衛を無視して大井川に橋を架けて家光に叱られた」「浅間神社で聖獣の猿を何匹も殺した」―。ただ、それを証明できる一次資料は少なく「幕府の成立過程を描く中でヒール役を押しつけられた面がある」(増田学芸員)。

photo03 徳川忠長が乱行を繰り返した駿府城=静岡市葵区の駿府城公園巽櫓(復元)
 忠長は駿府城内で家臣や奉公人を何人も斬り殺すなどしたことで、31年に家光から蟄居[ちっきょ]を命じられ駿府を離れた。33年に自害し、28年の生涯を終えた。駿府藩は廃藩となり、2度目の駿河徳川家も終わった。以後約230年間、幕府直轄の統治が続いた。
 幕府が治めた駿府は、穏やかで変化の少ない安定した時代を過ごした。名古屋や和歌山など大藩の城下町などとは異なり、人口や経済圏も横ばいだったという。もし忠長が何事もなく駿府で政を続けていたら―。御三家に並ぶ「駿河徳川家」の治める駿府は全く違う歴史を歩み、異なる文化と人を育てたかもしれない。

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