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不登校でも「学校」に行かせるべき?⑤ しずしんニュースキュレーターと読者の意見【賛否万論】

 不登校の子どもの受け皿になっている静岡県内のフリースクールや私立通信制高校の関係者に3週にわたりインタビューし、一般の人にあまり知られていないフリースクールや通信制高校の活動状況や不登校の子の実情について話を聞きました。現在の学校教育の限界や制度の課題が浮き彫りになりました。今回はキュレーターと読者の意見を紹介していきます。

 読者 ひまじんさん(磐田市)67歳

 こんなことを言うと怒られそうだが、滋賀県東近江市長の発言を全面的に否定はできない。「義務教育ぐらいは受けさせたい」というのは親としての本音だからだ。
 フリースクールを敵視するかのような彼の表現は問題だが、我々の年代はこういう考え方が多数派ではないのか。義務教育から得られるものは、知識以外のものが大きいと思う。それは円滑に社会生活を営むための、基礎的な資質や能力である。生きていくためには学力以上に必要不可欠だ。
 少し我慢すれば行けるなら、学校へは行った方がいい。死ぬほど苦しいなら無理して行くことはない。だがいつまでも温室にはいられない。いつかそこを出なければならない。その時、外の冷たい風に負けない子供を育てることが大切だ。子供たちの心の傷を癒やすだけが、フリースクールの役割ではない。子供の居場所以外に、どんな付加価値を付けることができるか。
 それがフリースクールが世間から認知されることにつながる。

成長を「待つ」教育 再設定を
キュレーター 江口裕司さん(三島市)

 

 

製造会社で米国勤務後、設計、製造、調達、翻訳、ISO、社内教育など多様な業務に携わり定年退職。現在、パートの傍ら大学再入学を目指し勉強中。65歳

 最初に滋賀県東近江市長に反論。フリースクールは国家の根幹を崩しかねない? 逆です。公教育が国家の根幹を崩しかねないからフリースクールが必要とされるのでしょう。市長も「賛否万論」読んでください。
 さて本題。まずは教育の目的と学校の意味のおさらいから。私淑する経済学者の宇沢弘文氏は「社会的共通資本」(岩波新書)で「教育の目的は幸福へ導くこと。学校はその能力を開発する制度資本。しかし学校教育は平等を重視する結果、個性への配慮を欠き社会に負の影響をもたらしている」と辛口な趣旨を述べています。憲法26条1項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とあります。義務教育は平等とセットなのですね。「能力に応じて、ひとしく」の付記により教育の平等性は能力別教育で担保すると解釈できます。しかし義務教育は能力別教育でしょうか。平等法理と教育理念の齟齬[そご]が子どもの心に負の影響を与え不登校の潜在要因になっていないでしょうか。
 義務教育の「平等」とは本来、平等に幸福感の維持能力を備えさせることではないか。だから個性に応じカスタマイズした教育が望まれるのではないか。ならば画一性を旨とする集合教育は憲法が保障する教育の平等と乖離[かいり]しないか。そう考えると、いわば教育のホンネとタテマエのはざまで揺れ動く子どもの存在を否定できません。そこに登校の壁が生じるように思います。
 「不登校の理由は本人でも分からないことが多い。親は子を信じ、じっと待つことが必要」。多くの識者の見解です。児童心理学者の平井信義氏の言葉を借りれば「無言の行」ですね。
 ありのままを認め信じ続ければ子どもは必ず「何か」に気づき行動が変わる、というわけです。その分からない「何か」とは何か。「自分なりの幸せのあり方」ではないでしょうか。その答えに気づく時、自我を再構築し再び踏み出すことができる。不登校は、その答えを待つ自己調整機能であり親の試練でもありそうです。
 思想家の鷲田清一氏は「『待つ』ということ」(角川選書)でこう思索します。「『待つこと』は、希望を手放さずに分からないことを消失することでしか維持できない。そのゆっくりとしか流れない時間がついに無意味になるのを『待つ』ということは、したがって受け身でも無為でもない」。自分なりに順応しようとする子の成長を社会的に「待つ」ことができる教育制度の再設計を望みます。
 最後に私事で恐縮です。長男は通信制の高校を卒業し学問の道をまい進しています。子は自分を信じる力をいつの間にか味方にし、親はただ待っただけ。親としても少し自信がついたように思います。


 読者 ポカリさん(静岡市駿河区)52歳

 娘は小学校に入学し間もなく、先生が怖いと言って学校に行けなくなりました。当初、泣きじゃくるわが子を怒って諭して学校に行かせましたが、次第に心は不安定になっていきました。
 私は1年間母子登校をしましたが、学校では、威圧的に怒鳴る先生、同調圧力の強制、笑いもなく緊張感が続く授業、とても息苦しい場所でした。ふと思い出すのは、幼い娘に、なぜママとパパの所に生まれてきてくれたの? と聞いた時、なんか楽しそうだったから、と笑顔で答えたこと。子どもはたくさんの好奇心で力いっぱい生きていくために生まれてきます。
 人格形成においてとても大切なこの時期。勉強よりもまずは生きていく力が大事です。不登校が問題行動だという社会の風潮、学校にとらわれている大人が子どもの心を受け止め、学ぶ場所は学校だけではない、と理解しその子にあった学びの環境をつくっていくこと、それが社会や大人の義務だと思っています。


シンパイをシンライに換えて
キュレーター 杉山有希子さん(掛川市)

 

 

イベント会社「ママバトン」代表取締役。2男1女の母。10月から伴走型人づくりスクールを主宰。街づくりは人づくりから、の理念で人材育成に励む

 慣れというのは本当に怖くて、本当はありがたく思うようなことでさえも、不満に思ってしまう。生まれた時はこの子がいるということだけでありがたかったのに。シンパイは自分が苦しくて、楽になりたいからするもの。パをラに換えて、シンライしたいと今は思う。
 「今日は学校行かない」と言われると、私の頭の中は「仕事と予定をどう調整するか」でいっぱいになる。もはや、私の頭の中の混乱といったら、子どもが学校に行かないことではない。学校に行かない理由を先生に何と報告しようか。だって私も本人さえも理由はよくわからない。そんなことばっかり。
 車でなら登校できる息子を送った帰り道、下を向いてゆっくりと学校に向かう子や、いらついた表情の母親に車に乗せられて登校する子とすれ違う。そして、「学校って何なのだろう?」が、わたしの頭の中をグルグルまわりだす。
 今でこそ「学校なんて行かなくてもいい」「他に居場所はある」って言ってくれる人が多い。いや、私だって子どもの不登校に悩むお母さんがいたら同じように言っていた。だけど、当事者になると、自分の無責任さにあきれてしまう。そう、私は「学校は行ってほしいな」って思っているお母さんだった。それは、やりたくないこともできるようになってほしいから。
 学校に行けなかった日に、行かなくてもいいんだよという意見をSNS(交流サイト)で見ては自分を安心させている自分。私が苦しいから心配していただけ。行けなかった日に「どうしたら行けるようになるか」を向き合って考えてくれる人もいた。付き添えばいける、車なら行ける、そんな風に。行けさえすれば明るい顔で「今日ね、行って良かったよ。体育楽しかった」と言うわが子。学校が子どもたちにとって“安心”を感じられる場所であるなら、「行ってきまーす」と言う元気な声がどこの家庭からも聞こえてくると思う。
 「虫の目 鳥の目 魚の目」の話を聞いた。近くから虫のように見る。引いて高いところから見る。流れを魚のように見るということだ。学校に行き渋ったり行けなかったりの話はいろんな課題が混ざっている。1度起きた体調不良がトラウマなこと、学校に行かないことによる未来への不安、学校を休まれると親が仕事ができないこと、自分の小さい頃の記憶、ワンオペ育児の家庭のこと。それらをぐちゃぐちゃに考えるんじゃなくて、分けて考える。虫のように、鳥のように、魚のように。
 もう一つ。私はぐるりと逆側からも見たいな。不安がなければ元気なことがわかった。そして朝、元気におはようが聞けて、ランドセルを背負って校舎に入れて、呼び出しの電話がないことが、どんなにありがたいことで幸せなことか思い出した。
 毎日、今日はどうかな、行けるかなと、ピンと気を張っているのはもちろん疲れるけど。「今日も怒っちゃった」って思って落ち込んで切なかった私がいたけど、子どもに怒ってるお母さんを見ても、「ひどいな」って思うことはなくて「頑張って向き合えてるお母さんだな」「愛あるな」って思うから。
 怒ってもいい。学校はできれば行かせたい。休んでもいい。でも仕事はしたい。全部素直な私の気持ち。子どもに素直になってほしいと思うから、私も私に正直にいたい。学校に行かせるべき、とは思いません。ただ私は行ってほしいなあと思っています。


 次回は1月12日、同じテーマでしずしんニュースキュレーターや読者の意見を紹介します。

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