あなたの静岡新聞
▶ 新聞購読者向けサービス「静岡新聞DIGITAL」のご案内
あなたの静岡新聞とは?
有料プラン

テーマ : 藤枝市

徳川家康の死因は? 鯛の天ぷら/胃がん/長宗我部氏遺臣の暗殺… 最期の地・駿河に残る多様な説

 戦乱を終結させて天下太平を築いた徳川家康は元和2(1616)年4月、波乱に満ちた75歳の生涯を閉じた。最期の地となった静岡県には、死因にまつわる逸話や伝承が複数残る。天ぷらによる食あたり、持病、タカ狩り中の暗殺―。最晩年の姿を史料からひもとき、識者に解説を聞いた。 photo03 元和2(1616)年 家康の容態
最晩年 少しずつ衰弱 photo03 造形作家・漫画家たたらなおきさん作の「1月21日昼から22日夜更けにかけて、田中をめぐる一日の回転ジオラマ」。家康が発病し、床に伏せる場面を表現している。
 亡くなる直前の家康はどのような状態だったのか。居城だった駿府城の跡地に建つ静岡市歴史博物館の広田浩治学芸課長(55)は「死去する前の3カ月、容体は一進一退だったが、少しずつ衰弱していったと考えられる」と説明する。当時を伝える史料として知られるのは、家康側近の僧侶だった金地院崇伝の日記「本光国師日記」だ。
 記述によると、家康は同年1月21日夜にタカ狩りで訪れた田中(現藤枝市)で発病した。腹痛や痰[たん]に見舞われ、「御虫」の記述から原因は寄生虫と考えられていたようだ。「萬病圓[まんびょうえん]」「ぎんゑきたん」を服薬して回復し、25日には駿府に帰った。しかし、これを境に体調悪化の記述が増加。発熱や腹痛のほか、食が細くなっていく様子が読み取れる。
タイの天ぷら 真相は photo03 料理研究家成沢政江さんが再現・監修した「家康公が田中城で召し上がった鯛の天ぷら御膳」。右はカヤの油、左はごま油でタイを揚げ焼きした(藤枝市郷土博物館・文学館で常設展示)
 家康の死因として、広く語られてきたのが「タイの天ぷら」による食あたりだ。1月21日、家康は豪商の茶屋四郎次郎と田中で会い、タイの料理が京都で人気を得ていると聞き、早速食べてみた。とてもおいしくて食べ過ぎ、その夜に腹痛が起きた―とするのが通説だ。
 藤枝市郷土博物館・文学館は同料理を再現・展示しているが、タイの天ぷらを死因とは説明していない。学芸員の海野一徳さん(48)は田中を訪れる前から、家康は体調が悪かったと指摘。「本当に食あたりがあったとしても、その後の回復を伝える史料もある。亡くなるまで3カ月間も空いていて直接の死因とは考えにくい」と加える。
 そもそもタイの料理の記述があるのは後世の史料で、史実と断定されていない。タイをごま油で揚げてニンニクをかける(元和年録)、タイをカヤの油で焼いてニラをかける(武徳編年集成)と、史料により調理法が異なる。衣の記述もなく、現在の天ぷらとは異なる料理の可能性もある。
 容体の情報として注目されるのが、江戸幕府がまとめた「寛永諸家系図伝」の家康侍医の片山宗哲の項目にある「御腹中に塊ありて時々痛たまふ」の記述だ。史料から読み取れるこうした症状から、近年は死因を胃がんとみる説が有力だ。同館も「家康の死因は胃がんと推定されていますが、風味のよさに食が進んで天ぷらを食べ過ぎたことが、弱っている胃にダメージを与えたのでしょう」とパネルで解説している。
焼津に伝わる狙撃暗殺説 photo03 銃声に驚いた家康の馬が暴れた際に落ちたと伝わる鐙(良知家蔵・焼津市の市歴史民俗資料館で11月26日まで開催中の特別展「天下人の横顔」で展示中)
 家康はタカ狩り中、家康を恨む戦国大名の長宗我部氏の遺臣に狙撃された―。焼津市惣右衛門を開拓した庄屋の良知家には、暗殺の異説が伝わる。
 伝承によると、家康は1月、同市小川近くでタカ狩りを終えて馬で引き上げる途中に火縄銃で撃たれ、「御百性家[みだらけ]」と呼んで寵愛[ちょうあい]していた良知惣右衛門宅に運び込まれた。後に回復して駿府に帰ったとする説のほか、そのまま絶命し、世の混乱を避けるために「馬引き」役が4月まで影武者を務めて家康の生存を装ったとする説もある。
 良知家31代当主で県議の良知淳行さん(58)によると、良知家には家康の馬が銃声に驚いて暴れて田んぼに落ちたとされる馬具の鐙[あぶみ]のほか、家康からの拝領品も多く残る。
 土佐(現高知県)を拠点にした長宗我部氏は、関ケ原の戦いや大坂の陣で家康と敵対し、領地没収や処刑の憂き目に遭った。ただ、暗殺の根拠史料は不明。高知県立歴史民俗資料館には、暗殺を示す展示物はないという。
 (教育文化部・鈴木美晴)

いい茶0
▶ 追っかけ通知メールを受信する

藤枝市の記事一覧

他の追っかけを読む