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テーマ : 熱海市

「ヒロシマ」で伝える市民たち 被爆国から願う平和【戦後78年 しずおか】

 8月15日、唯一の戦争被爆国である日本は78回目の「終戦の日」を迎えた。国外に目を向ければロシアによるウクライナ侵攻は長期化し、為政者は核兵器の使用をちらつかせる。混沌(こんとん)とする世界情勢の中で、被爆地広島から平和を願う人々の胸にいま、去来するものとは-。現地から市民の声を伝える。

平和記念公園の案内役 祖父母が静岡にゆかり 粟村智幸さん 混沌の世界 今こそ語り続ける photo03 平和記念公園の慰霊碑の前を案内する粟村智幸さん。ピースボランティアになると伝えた日に自身の体験を語った母美智子さんは今春、90歳で亡くなった=7月29日、広島市中区
 「核は一瞬で多くの人々の生を無にする。巻き添えになるのは市民です。なぜプーチンはそのことが想像できないのか」。7月下旬の広島市・平和記念公園。公園内を案内する「ピースボランティア」の粟村智幸さん(62)=同市西区=がつぶやいた。粟村さんの祖父重秋さんは元静岡県職員、祖母とくさんは沼津市出身。一瞬の閃光(せんこう)は、静岡で巡り合った2人の人生までも容赦なく変えた。
 78年前の8月6日。とくさんの姿は爆心地のすぐそばにあった。空襲などによる延焼を防ぐため建物を取り壊す作業に従事。そのさなか、爆風を受けた。全身に大やけどを負い、何とか帰宅したが、8日にこの世を去った。まだ35歳の若さだった。
 鹿児島生まれの重秋さんはとくさんと静岡で出会い、その後、親戚の住む広島県に移り、県庁に勤務した。市中心部の平和大通りの工事にも携わった。爆心地から約400メートル先に事務所があったが、当日は市外へ出張。ただ新型爆弾投下の一報を受け一目散に戻り、被爆した。同僚の多くを失い、後年こう語っていたという。「運が良かっただけだ」
 原爆は当時13歳だった母美智子さんのその後にも暗い影を落とした。爆心地から約2キロで被爆、大やけどを負った。教師を志していたが、原爆による傷が癒えず断念。母は事あるごとにこう語っていた。「原爆に人生を狂わされた」と。
 粟村さんは仕事の傍ら2014年からピースボランティアとして活動している。当時、平和記念公園を散歩中、被爆2世としてのとるべき立場に思い至り、ボランティアになると母に伝えた。その時、それまで「あの日」を語りたがらなかった美智子さんが経験を語り始めた。「私の代わりにあなたが伝えてほしい」との言葉とともに。
 14年秋、祖母のルーツを探しに沼津市の原地区を訪れた。寺院を訪ね歩くうちに、祖母の先祖の墓に行き着いたという。「いつか伝承役として静岡を訪ね、平和についてともに考えてみたいと思っています」。祖母の古里を再び自らの足で踏みしめたいと決意を新たにする。
 平和記念公園には、「平和の灯(ともしび)」と呼ばれる火がともる。揺らめく火は核兵器が地球上から消え去るその日まで燃え続ける、とされる。「この火が消えることは果たしてあるのだろうか、とも思います。それでも消えるその日を願い、私の家族に何があったか伝えていきたい」。自らの伝承が未来につながると固く信じている。
侵攻前からウクライナと交流 大学講師の伊藤駿さんと学生 広島だからできることを photo03 侵攻後のウクライナの状況を説明する伊藤駿さん(右)。「広島が支援に動かなかったら誰が動くんだという気持ちはある」と明かす=4日、広島市安佐南区の広島文化学園大
 ロシアの核の威嚇にさらされるウクライナへ、広島から支援を続ける人々がいる。広島文化学園大(広島市安佐南区)講師の伊藤駿さん(30)と学生は、平穏が訪れるその日までヒロシマから祈りをささげる。「被爆地広島から非核の声を上げ続けることに、きっと意味があるはず」-。
 伊藤さんは障害児教育が専門で、熱海市伊豆山の土石流被災地で避難所の子供の支援や調査にも取り組んだ。自身の調査過程でチェルノブイリ原発に赴き、ウクライナとの交流が生まれた。日本の学生と中部ジトーミルの児童生徒らとのオンライン交流などを実施していたが、2022年2月、状況が一変した。
 いても立ってもいられず寄付活動を始めると学生も呼応。市民に関心を持ってもらおうと現地の写真の展示会や、広島とウクライナの中学生同士のオンライン交流会も開いた。昨年末には防寒着が不足しているとの相談を受け、浄財を原資にカイロ千枚と靴下300足を寄贈。現在もオンライン交流を続ける。
 交流している学校も爆撃を受けたり、親が戦地に赴いたりしているとの情報も寄せられているという。支援活動に参加する同大3年の島袋麗穂さん(22)は「戦争が長期化すればするほど支援への関心は薄れる。それでもウクライナの人々に少しでも支援の輪を感じてもらえれば続ける意義がある」と強調。広島市生まれの同3年菅本美紅さん(21)も「破壊された街の風景と原爆ドームが結びついた。広島だからこそ支援したいという思いにかられた。広島市民にとっては自然な気持ちだと思う」と明かす。
 伊藤さんは東日本大震災の被災地支援にも取り組んでいる。「未来のために何ができるか今から考えておく必要がある。震災の被災地や広島の復興過程をウクライナに還元する意義はきっと大きい」と訴える。
現在の世界情勢 市民は何を思う ■心ある人がトップを動かして photo03
 12歳で被爆、両親を失った笠岡貞江さん(90)。体験の証言者としても活動している。
 「核によって被害を受けるのは一般市民です。いま戦争が起きているのは欲でしかない。国のトップがあまりにも市民のことを考えていない。核がいかに恐ろしいものなのか知らしめなくては。何年かかっても心ある人たちが結束し、徐々にでもトップの者を動かしていってほしい」


■利己的では戦争は終わらない photo03
 5歳で被爆し、現在は証言活動に励む石橋紀久子さん(83)
 「今、日本で平和に暮らしているこの瞬間にも、世界では戦争で命が失われています。上に立つ政治家が利己的になってはいつまでたっても戦争は終わらない。なぜ悲惨な過去から学ばないのでしょうか。勝ち負けにこだわって物事を進めてはいつまでたっても人間は成長しない。ウクライナに以前の安全な暮らしを取り戻してほしい」


■広島の過去から学んでいない photo03
 父の被爆体験を受け継ぎ、伝承活動に取り組む細川洋さん(64)
 「核の存在をちらつかせるとは本当にばかなこと。核兵器が使用されればどんな現実が待ち受けているか。広島の過去から世界が学んでいないことを証明している。5月にはG7サミットが広島で開かれた。為政者たちが何かを広島の過去から感じ、非核への一歩としてくれることにかすかな望みをかけている」


■子供たちの平和を願う心 大切 photo03
 NPOメンバーとして、広島を訪れた修学旅行生らに平和学習の機会を提供している南知仁さん(45)
 「一度戦争が起きると、止めるのが難しいと痛感している。ウクライナ侵攻もロシアが自国の利益のみを追求した結果。それでも、大切なのは子供たちの中に平和を願う心を育み続けることだと信じている。市民として微力かもしれないが、地道に平和の文化の歴史を紡いでいきたい」


■被爆者の思いを自分事として photo03
 原爆投下前の白黒写真のカラー化を通じて記憶の継承活動に取り組む東京大4年の庭田杏珠さん(21)
 「被爆者の傷みを思うと同じ思いをする人が再びいてはならない。ウクライナだけでなくロシアの人も傷ついている。モノは買い直せるが、大切な家族は二度と戻ってこない。核兵器は二度と使ってはならないという被爆者の思いを、自分事として捉えることの大切さを痛感している」

静岡県関係のロシア人とウクライナ人に聞く ■一日も早い終戦を ヴォロディメル・グナチュークさん(ウクライナ出身、元静大院研究員) photo03 今年2月、本紙のインタビューに答えるヴォロディメル・グナチュークさん。侵攻開始その日から「平和が当たり前でないという事実をかみしめてほしい」と静岡県に訴え続けている=浜松市中区
 「日本に原爆が投下されたことを世界は後悔しているはずだ」。ウクライナ侵攻開始時、静岡大浜松キャンパス(浜松市中区)の大学院光医工学研究科で学術研究員だったヴォロディメル・グナチュークさん(60)=ウクライナ出身=。企業の科学者として働いているフィンランドから日本、広島へ思いを寄せた。
 侵攻開始直後と同様「日本が大戦以降、いかなる国とも武力衝突を避ける努力を続け、実際に避けてきたのは本当に幸運なこと」と平和の意義を問う。一方、日本が米国の「核の傘」にある点に触れ、「米国との緊密な関係は良いことだが、独自の防衛戦略の再構築も必要では」と説く。
 いま、一日も早い終戦を願う。「日本からの支援に皆感謝している。戦争が終わり母国にまた戻り、経験を生かして再び母国のために働ける日を待ち望んでいる」と未来に希望を託す。

 ■核廃絶の訴え 日本から 伊藤イリーナさん(ロシア出身、富士宮) photo03 今春と昨秋には通訳として母国の観光客に広島平和記念資料館を案内したという伊藤イリーナさん。「涙を流し、最後まで展示を見られなかった人もいました」=8日、富士宮市
 「集団責任を感じています。自分の国のやっていることは許されない」-。富士宮市のロシア語講師伊藤イリーナさん(51)はサンクトペテルブルク出身。核兵器使用をほのめかす祖国の大統領に「いまだ日本では被爆した方が苦しんでいる状況を考えれば、あり得ないこと」と憤る。
 伊藤さんは富士市に避難したウクライナ人の通訳も担当した。「せめて少しでも役に立ちたい」との思いからだ。クリミア併合や選挙を巡る不正疑惑。今、伊藤さんの胸には「声を上げてこなかった」反省がこみあげる。だからこそ訴えたい。日常は政治家次第でもろくも崩れ去るのだと。
 4年前のラグビーW杯、日本の初戦の相手はロシアだった。「日本の方とスポーツや文化について語りあえたころが懐かしい。平和のため、核廃絶を広めるのにふさわしい国は日本の他にありません」
取材後記 今こそ先人の意志と思い 後世に  「今でこそ緑が広がる公園ですが、ここは元々約4千人が暮らす広島の中心。それが一瞬で跡形もなく消えたんです」。平和記念公園案内役の粟村智幸さんの言葉が幾度も胸に去来する。
 粟村さんだけではない。本県や広島の被爆者、被爆2世の思いは皆共通している。被爆国日本にとって、核の影が見え隠れするウクライナ侵攻は対岸の火事ではないのだと。
 被爆体験の伝承は、平和の意義や核の脅威を身近に感じさせてくれる数少ない手段だ。静岡県民の戦争体験もそれは同様だろう。
 焼け跡の灰の中から強く立ち上がった78年後の広島にたたずむと、ふと惨事を忘れそうになる。被爆者の平均年齢が85歳を超え、広島では体験の伝承へ新たな局面を迎えている。こうした国際情勢だからこそ、広島の歴史を紡いできた先人の意志と思いを後世に受け継がなくてはならない。
 (下田支局・伊藤龍太)

 

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