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女学生の傘事情 日傘は黒、雨なら唐傘【近現代 学校制服考⑧】

 読者の皆さんは、「雨傘唐傘、傘さして、父さん迎えにいきましょう、雨が降る降る日暮れ道、つんつん燕[つばめ]の宙がえり」という歌い出しで始まる、昭和16(1941)年に作られた「雨傘唐傘」(作詞・武内俊子、作曲・河村光陽、歌・河村順子)という童謡をご存じだろうか。4分の2拍子の哀調を帯びた短調の旋律で流行した。

(イラスト・梅原陸)
(イラスト・梅原陸)

 「雨傘唐傘」とは日が照ったときに差す日傘と区別している。両方ともに竹の骨で組まれ、日傘は綿や和紙、雨傘は和紙を貼った唐傘が主流であった。雨傘は日傘と違って雨をはじくため、和紙の表面に油を塗っていた。時代劇で傘張りは浪人の内職の定番である。
 洋傘もあったが、高価なことと防水性の問題もあり、主に日傘として用いられていた。明治45(1912)年に埼玉県の熊谷高等女学校(現・熊谷女子高校、以下高女と略称)に入学した生徒は、「日傘は黒と決められていました。もし色の付いた日傘をさしてきたりすると、校長室に呼ばれ、『何しに学校に来ているのか。派手なかっこうをして人に見せたいなら学校に来るな』といわれ、厳しいものでした」と振り返る(「鈴懸とともに-創立七〇周年記念-」埼玉県立熊谷女子高等学校、81年)。
 明治時代から着物に袴[はかま]を穿[は]いていた女学生は、雨の降る日には「雨傘唐傘」を差して通学していた。それは昭和にセーラー服などの洋式制服になってからも変わらなかった。島根県の根雨高女は、昭和4(29)年からセーラー服を制服にしていた。昭和7(32)年の入学生は、「日傘は綿の黒いものでした」とのことで「雨の日はカラカサ」を差したという(「創立八十二周年記念誌」2002年)。
 昭和6(1931)年に岩手県の盛岡女子商業学校(現・盛岡市立高校)を卒業した生徒は、「雪や雨の日は屋号の大きな字が書いてある番傘をさし」たと回想する(「21世紀への新たなる息吹」盛岡市立創立80周年記念誌編集委員会、2000年)。開いた傘の表面には店の屋号、学校名、生徒の姓を書き入れたものが少なくなかった。
 長崎県の口加高女(現・口加高校)の昭和11(1936)年の雨が降る日に撮影した通学時の写真があるが、セーラー服に丈の長いスカートを穿き、黒靴下に革靴を履いている。手提げの鞄[かばん]を片手に抱え、もう一つの手には唐傘を差している。一人の生徒は、開いたときに蛇の目のように見えることから、蛇の目と呼ばれた模様を差す。他の2人は、無地で「竹下」など姓を毛筆で書いたものを差している。無地だと誰のものか分からなくなるため、傘屋では唐傘に姓を書き入れるサービス(オプション)をしていたことが見て取れる。
 昭和20年代後半に防水加工に適したナイロンが普及すると、次第に洋傘が主流となり、唐傘の製造は減っていった。現在では中高生が唐傘をさして登校したいと思っても、入手困難になってしまった。
 (刑部芳則・日本大学商学部教授)

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