テーマ : 教育・子育て

過酷な通学路 裸足や下駄 雨には唐傘【近現代 学校制服考⑪】

 明治時代から昭和戦前期まで、駅に近い場所にある学校ならともかく、山間部のような陸の孤島に存在する学校に通うのは大変であった。バスも自動車もなく、往復はひたすら歩くしかない。今回は現在では想像を絶する過酷な通学路を歩いた女学生たちの体験記を紹介する。

イラスト・梅原陸
イラスト・梅原陸

 熊本県の玉名高等女学校(以下高女と略称、現・玉名高校・付属中)では、大正元(1912)年に①約4キロ以上8キロ以内の通学者が43人②約8キロ以上12キロ以内の通学者が5人、同4(15)年に①57人②20人、同6(17)年に①67人②21人いた。彼女たちは毎日この距離を歩くのである。同5(16)年に卒業した生徒は「履物は下駄[げた]ばきで特に米富、横島などの遠方から通われる方は、朝な夕なに星をいただきテクテクと一二時間もかゝってやっと間に合うなど、今の時代にくらべてとても苦労が多かった事は比較になりません。又[また]夏ともなれば袴[はかま]の裾より足もとまで真白い埃[ほこり]につつまれ、学校につくなり足洗いという始末、折悪[あ]しく途中で鼻緒でも切れるものなら、それこそ下駄はぶらさげ道具はふろしきにつゝんで肩や胴に結びつけ素足のいでたち、又嵐にでもあった時は傘はチャンメラ傘となってずぶぬれのあわれな姿となり、授業どころではないような事が幾度かあった」と、苦い体験を振り返る(「玉名高校七十年史」熊本県立玉名高等学校、73年)。
 雨が降る日に長距離歩くのが大変だったのは、千葉県の八日市場女学校(現・敬愛大学八日市場高校)に通う生徒も同じであった。昭和3(28)年入学の生徒は、「私は栄村(今の野栄)のはずれから通学したので、片道二里半(一〇キロメートル)の距離があった、急いでも二時間ちょっとかかった。途中までは裸足[はだし]で行き、町の近くで下駄に履きかえた。雨の時など本当に大変でした。袴が濡[ぬ]れるので、高くはしょって唐笠(洋傘は高いので)で通学した」と語る(『創立七十周年記念誌』八日市場敬愛高等学校、91年)。
 彼女の同級生は、「片道一里半(六キロメートル)の道路には、割栗石がおかれて下駄がすりへってしまう。余りへってくると二つに割れてしまい、裸足で歩いてきた。割栗石がとがっているので、痛さをこらえ“オイティ”“オイティ”と言いながら、一時間半かけて通学した」と語っている。
 そのような中でも、通学路で楽しみを見つけながら歩いた生徒もいた。香川県立丸亀高女(現・丸亀高校)を大正15(26)年に卒業した生徒は、「友達と八キロ余りの道をよく歩いて帰った。池の堤でつばなをつんだり、れんげ畑の畔を通ったり、四つ葉のクローバをさがして歩いたり、とても楽しく、八キロの道は少しも苦にならない」「女の子が自転車に乗るなんて、もっての外と叱られた時代でもある」という(香川県立丸亀高等学校創立八十周年記念文集『想い出』、73年)。
 実に健気[けなげ]と褒めてあげたいが、歩くしかなかったのだから仕方ない。しかし、大正末期から自転車に乗る女子生徒が増えてくると、長距離を歩く姿は減っていった。この女子生徒と自転車については、次回紹介する。
 (刑部芳則・日本大商学部教授)

いい茶0

教育・子育ての記事一覧

他の追っかけを読む
地域再生大賞