テーマ : 教育・子育て

袴を寝押しする習慣 皺伸ばし 手入れ欠かせず【近現代 学校制服考⑨】

 高等女学校(以下は高女と略称)に通う女子生徒たちの多くが、毎晩寝る前に行っていた生活習慣がある。袴[はかま]を布団の下に敷く「寝押し」と呼ばれる行為だ。全国高等学校の記念誌の明治時代から昭和戦前期までの回想録には、「寝押し」に関する記述が多く見られる。

(イラスト・梅原陸)
(イラスト・梅原陸)

 鳥取高女(現・鳥取西高校)では明治34(1901)年に木綿の海老[えび]茶袴を穿[は]くようになった。そして明治38(05)年から袴の裾上3寸(約9センチ)ぐらいのところに白線を入れたが、これが鳥取高女の伝統と矜持[きょうじ]のシンボルであった。その頃の生徒によれば、「皺[しわ]になり易い木綿の事とて、毎日霧を吹き叮嚀[ていねい]に畳みて、寝床の下に敷くなど袴の皺には随分苦心致しました」と語っている(「鳥取西高百年史(本文編)」73年)。自分たちの誇りである袴に皺が入っていてはみっともない。いつも張りのあるよう袴の手入れは欠かせなかった。
 長野県の岡谷高女(現・岡谷東高校)の証言からは、修学旅行先の旅館でも全員が袴の寝押しをしていたことがわかる。昭和9(34)年に関西を修学旅行した生徒は、「木綿の袴は一日歩いてくると皺だらけになり、寝押しする時の宿の大部屋の賑[にぎ]やかさと壮観さ、ほんとにみごとなものでした」と言う。
 長野県では昭和になってからも袴を継続する高女が少なくなかった。学校側が各家庭の経済負担を忖度[そんたく]し、高価な洋式制服を忌避したことによる。この点は経済的な負担に配慮して昭和14(39)年3月に全高女の制服をセーラー服に統一した静岡県の政策とは正反対である。静岡県は、日中戦争が長期化したため、同一規格のセーラー服を導入することにより、学校別による制服費の格差がなくなるだけでなく、女子生徒の着物の購入費を抑止できるという狙いがあった。
 昭和10(35)年ごろには、全国の中でも長野県の袴姿は珍しくなってきた。昭和11(36)年に岡谷高女の袴が修学旅行先で事件を起こす。女子生徒たちは奈良の旅館で就寝時間に袴の寝押しをした。朝起きて袴を確認したら大変なことになった。「前日大雨に逢[あ]って濡[ぬ]れた袴を寝押しをしたまではよかったが、濡れ方がひどかったために袴の染料がおちてしまい、使用した部屋全部の畳をエンジ色に染めてしまった」(「岡谷東高校七十年誌」83年)。この事件によって、昭和12(37)年にブレザー型の制服を定めることとなった。
 木綿の袴と染料の相性が合わなかったのか、質の悪い染料を使っていたからなのか、当時の技術で着物の染料は水分を含むと色がにじみ出てしまうのか、いろいろなことが考えられる。洋式制服は、そうした問題点を克服することができたといえる。ところが、面白いのは袴からスカートへと変化しても、女子生徒たちの「寝押し」の習慣がなくなることはなかった。この話題は次回述べる。
 (刑部芳則・日本大学商学部教授)

いい茶0

教育・子育ての記事一覧

他の追っかけを読む
地域再生大賞