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テーマ : 富士市

不登校でも「学校」に行かせるべき?⑥ しずしんニュースキュレーターと読者の意見【賛否万論】

 不登校の子の受け皿になっているフリースクールや私立通信制高校に関して取り上げ、前回からキュレーターや読者の意見を掲載しています。子どもが不登校を経験している保護者からも投稿が寄せられ、「不登校」をどのように捉えるのか、切実な思いや葛藤が伝わってきました。今回もフリースクールや学校の在り方についての意見を紹介します。

義務教育の意義 考えるきっかけ
キュレーター 寺子屋たっちゃんさん(静岡市)


 

 

私学教育に携わり50年超の人情家。「人は多士済々」。ことし後期高齢者となる

 まず学校はなぜあるのか? について考えてみましょう。
 1 社会的生活を営む上での基礎を学ぶ(国家的目的)
 2 個人としての資質の向上を目指す(個人の資質養成)
 の二つです。元々、日本では武家に属する者は勉学にいそしむ機会を持っていましたが、庶民の学ぶ機会はほとんどありませんでした。明治以後、西洋のシステムに倣い国が庶民の勉学への道を開きました。義務教育の始まりです。
 そこには、私たち全員の識字率を高め国家の地位の向上を目指す目的があったのだと思います。そこに学校が出来上がり、知徳体と言われる教育目標が設定されるようになりました。知は知識を得させ智慧[ちえ]を産み出せる力の養成です。徳は社会生活を営む上での慈愛の心の養成です。弱い者には手を差し伸ばせ、お互いにお互いを思いやろう、というものです。体は健康な体作りです。当時の国の考え方として、体が弱ければ何も出来ないというものがあったかと思います。
 上記のことを基本とすれば義務教育に関しては誰もが学校へは通うべきだと考えます。上級学校への進学に関しては人それぞれの考え方があるので、自分の思いを大切にすれば良いと思います。
 義務教育のうちは学校へ行くことが本筋だと考えますが、時代の変化とともに社会を構成するインフラが進歩し、人の考え方も変わってきました。自己の利益(金銭的利益だけを指すのではなく)を求めることが強くなり、自己主張が出来ることが通例となってきました。社会の構成要員たる人の本質を養成することより自己の利益を要求することの方が勝ってきてしまいました。言い換えれば個人主義が利己主義へと変化してきていると感じます。
 そんな世ですから親が子どもを学校へ行かせるということも変えてよいのではないでしょうか。学力を付けるということに関しては対面授業で教わらなくても文明の利器の利用で遠隔授業を受けることも可能になりました。また静岡市では小中一貫の試みがスタートし、教師が教えることに加え、子どもたちが主体となって考える授業の展開がなされています。ですから子どもの精神的状態、子どもを取り巻く環境(家庭、学校、地域)などによっては必ずしも学校へ行かせることはないのかもしれません。いつかは精神的に成長して自分の人生を歩み始めるでしょうから。
 ただ、義務教育のもう一つの目的であるより良い社会生活の営みを訓練するということからは離れる時期となってしまいますので、そこを考えていく必要はありますね。物事にこれが正解だということはないと思います。その時点、時点でよりベターな手だてを考える、またいろいろな方々と相談していくことが肝要ではないでしょうか。

読者 山本伊佐雄さん(焼津市) 元中学校教員 71歳

 多くの企業の場合、入社してすぐに現場には行きません。お辞儀の仕方、営業の仕方、電話の仕方などさまざまなことを教わります。しかし教師の場合、十分な研修を受けず、いきなり生徒と接することが多いのです。知識はあっても、それを生徒に伝える技術は持っていません。教師は教え方の技術を学ぶ機会がほとんどない、と私の経験からは言えます。華道や茶道に流派があるように、全ての教師が同じ方法でやらなくてもいいと思います。が、教え方の技術は持たないといけないと思います。だから、教え方の上手な先生と下手な先生がいるのです。
 多くの生徒に受け入れられる技術でも、受け入れられない生徒もいると思います。残念ながら、そういう生徒までカバーするゆとりは学校にはありません。フリースクールでそういう生徒を救ってくれるなら、それはいいことだと思います。そういう子どもは、不登校の生徒の気持ちや接し方が分かる大人になると思います。


多様な学びと「学校」変革が必要
キュレーター 松浦静治さん(島田市)

 

 

任意団体Study Like Playing代表。20年間の小中学校教員生活の後、早期退職して地域で子どもを育む活動を実践。フリースクール、寺子屋、自然体験教室等を展開

 日本の「学校」は高度経済成長期にはフィットしたかもしれません。教科書を作り、日本全国均質の学習内容を1人の先生が40人からの子どもたちに教え、それについてこられる人たちが日本のエリート層へ。ついてこられない人たちは労働者層へ。
 しかし、その時代は去り、テストで高得点を取ることが必ずしも幸せに直結しないこと、全国民が必ずしも均質の内容を学ぶ必要はないことに、人々は気付き始めています。
 これからの「学校」に必要なのは、自らの目標や課題解決のために学び行動する人、みんなが互いを尊重し合い、共に幸せを感じながら過ごせる社会を作っていく人を育てていくことだと思います。
 不登校は、社会は変わったのに、変わることのできない「学校」によってどんどん生み出されてしまっているのです。
 それにアンチテーゼを突きつけ、新しい学びの形を提案しているのがフリースクールです。子どもたちが好奇心を働かせながら生き生きと笑顔で学び、点数で人の優劣を比較するのではなく、みんな違ってみんないいというありのままが受け入れられる学びの場を作ろうとしているのです。それは子どもたちに楽をさせてただ遊ばせておくのではありません。まずは、安心できる居場所を作ります。そして、自分の目標達成のためには困難なことにも挑戦し、それを乗り越えようと努力することを仲間や大人が寄り添って支えます。当然、基礎的な学力を身に付けることも必要になってきます。
 日本や海外に既にそのような学びを実現している場所はありますし、そこを通ってきた人たちが大人になって社会で活躍もしています。「フリースクールに通っても、将来、社会では通用しない」というのは誤解です。
 日本の「学校」には変革が必要です。それと同時に、多様な学びの場を選択できることが必要です。不登校の増加は、そのことを私たちに伝えようとしているのだと思います。

読者 島崎達也さん(富士市) 59歳

 約45年前、私が中学2年の時の担任だった女性教師はよく「戦争はいけないよ」と熱弁していた。私は放課後、職員室でその先生に「不良グループにいじめられているからクラスを替えてほしい」と相談した。翌日のホームルームで先生が「名前は言わないけど、うちのクラスでいじめられるからクラスを替えてくれと相談した子がいるんだよ。だけどね、私はいじめられる子の方にも問題があると思うのよ。やっぱり人間誰とでも仲良くしないとね」と話した。みんな「島崎のことだぜ」と言い、私は余計にいじめられた。
 2月のある日、校長が「汗を流して仕事しよう」と訓示した。その日から先生は「アンタ汗をかいてないじゃない。汗をかきなさい」と生徒に言うようになった。
 ある日、家庭科室の掃除をした。掃除した私の班は私を入れて男子3人、女子3人。私はみんながやっている目立つ床の中央の雑巾がけより、細かい棚の掃除を主にやった。I君とK君は掃除を全くせずに校舎の1階から2階まで追いかけっこで走り回って遊んでいた。女子2人はおしゃべりばかり。担任の先生が見回りに来ると、みんなは大仰に掃除をしているふりをした。
 先生は私を見て「島崎君、アンタ全然汗かいていないね。掃除サボってたね。見なさい、I君やK君は汗をかいて一生懸命に掃除してたよ。島崎君、アンタ一人のために全員掃除やり直しだよ」と命じた。
 私はばからしくなって、ただ汗をかくためだけに意味なく、とっくにきれいになった床の中央を走って雑巾がけをした。その後、また来た先生は「少しは汗をかいたようだね。許してやるよ」と答えた。
 この先生に絡んで、中学3年の時にはもっと理不尽な理由で男性教師から体罰を受けた。
 学校とはこういう場なので、現在不登校児が多いのは正常な反応だと思う。

キュレーター  「しずしんニュースキュレーター」は、新聞記事や時事問題の“ご意見番”として、静岡新聞の記者が推薦した地域のインフルエンサーです。毎回それぞれの立場や背景を生かしたユニークな視点から多様な意見を寄せてもらいます。

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