テーマ : 気象・災害

亡き人思い「見守って」 希望の光 いつか必ず【東日本大震災13年】

 大切な亡き人への思いは、何年たっても変わらない。「見守って」「頑張った」。東北沿岸部では11日、遺族らが涙を浮かべ、復興に向き合おうと決意を新たにした。

東日本大震災から13年、石巻南浜津波復興祈念公園で放たれたハト形の風船=11日午後3時2分、宮城県石巻市
東日本大震災から13年、石巻南浜津波復興祈念公園で放たれたハト形の風船=11日午後3時2分、宮城県石巻市


 関連死を除き180人が亡くなった仙台市若林区荒浜地区。早朝、津波で流された建物の基礎や観音像を朝日が照らした。大学敏彦さん(69)は妻真知子さん=当時(59)=や両親を亡くした。「13年間、いつも思い生きてきた。自分たちを見守って」と慰霊碑に手を合わせた。

 「頑張ったね」
 岩手県大船渡市の公園に今月置かれた「芳名板」には犠牲者400人以上の名が刻まれた。兄の新沼幸蔵さん=当時(71)=を亡くした菊田幸子さん(71)は「兄の名があるのはここで生まれ育った証し。『頑張ったね』と字が消えるくらいなでたい」と涙ぐんだ。
 児童・教職員計84人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小の法要で献花した佐藤そのみさん(27)は、亡くなった妹みずほさん=当時(12)=らへ「あの日はすごく寒かった。向こうでは暖かくしてほしい」と伝えた。
 東京電力福島第1原発事故による全町避難が2022年8月に一部で解消し、居住可能になった福島県双葉町の職員朝田幸伸さん(55)は「農地も避難指示を解除しないと、なりわいがない。復興にはまだまだ時間がかかる」と町内の雑草の伸びた更地を見やった。
 原発が立地する大熊町では、町立の義務教育学校と認定こども園が一体となった「学び舎ゆめの森」の校舎から、子どもたちの明るい声が響いた。保護者の女性(29)は「この13年はあっという間だった。イベントも増え、少しずつ町が前に進んでいると思う」と話した。町役場前の広場では、地震発生時刻の午後2時46分、生徒らが黙とう。中学3年に当たる9年生の斎藤羽菜さん(15)は「失われたたくさんの命が安らかに眠れますようにと祈った」。

 「生きなくちゃ」
 いわき市の沼ノ内漁港でタコを水揚げした小型船漁師の臼井紀夫さん(64)は津波で船を失い、原発事故で操業は一時全面停止に。昨夏には原発処理水の放出も始まった。能登半島地震で被害を受けた漁師の苦しみは痛いほど分かる。「今は真っ暗な未来でも、いつか必ず希望の光が見えてくる。どうかめげずに頑張ってほしい」と思いを寄せた。
 宮城県名取市閖上地区で同級生12人らを亡くした仙台市の女性(75)は慰霊碑の前で「みんなの姿を思い出せた。元気に生きていかなくちゃな」と涙をにじませた。公園では日没後、灯籠にオレンジ色の明かりで「NOTO&NATORI」の文字が浮かび上がった。
今伝えたいこと 被災者のひと言集  東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の被災地で、遺族らの思いを聞いた。かっこ内は取材場所。
 【岩手県】
 ▽妻を津波で亡くした陸前高田市の小野寺幸雄さん(76) 13年たち道も整備されてきたが、俺自身は何も変わらない気がする(陸前高田市の奇跡の一本松前)
 ▽能登半島地震の被災地への思いを書いたたこ揚げに参加した宮古市の小学6年舘崎央奈さん(12) たくさんの犠牲者や被災者が出て心が痛んでいると思うが、新たな一歩が踏み出せますようにとの思いを込めて「共に一歩」と記した(宮古市田老地区の防潮堤)
 【宮城県】
 ▽親戚を亡くした仙台市の会社員阿部美幸さん(33) 自分は生かされた命。亡くなった人たちの分も、大事に、頑張って生きていきたい(仙台市の荒浜地区)
 ▽息子の佳樹さん=当時(22)=が行方不明になった柴田町の沼田広光さん(64) 今も部屋はそのまま。復興復興と言うけれど、自分の気持ちは変わらない。(会えないと)分かっちゃいても会いたいな(石巻市の慰霊碑前)
 【福島県】
 ▽楢葉町に避難中の根本泰裕さん(39) ようやく墓参りができるようになったが、自宅に帰れないのは困る。何年先になっても、帰れるものなら帰りたい(富岡町の共同墓地)
 ▽浪江町の伝統工芸品「大堀相馬焼」の窯元・近藤学さん(70) (昨年一部で避難指示が解除され)この土地でやってこそ。課題を一つ一つ乗り越え、大堀を陶芸の町として復活させたい(浪江町大堀地区)

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