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神の君・家康を祭る「東照宮」 ご利益、時代とともに変遷 平和、長寿、学問、出世、良縁… 業績や故事で幅広く

 徳川家康の神廟[しんびょう]を有する国宝久能山東照宮(静岡市駿河区)、漆の装飾が絢爛[けんらん]豪華な世界遺産日光東照宮(栃木県日光市)。家康を神として祭る二つの「東照宮」は特に有名だが、全国東照宮連合会によると、歴史上存在した東照宮の数は700以上とも言われ、県内には全国最多の63社があったという。死後、家康はどんな神になったのか。現存する県内の東照宮を巡り探った。
実はここも  元和2(1616)年4月17日、江戸幕府初代将軍徳川家康は、駿府城(現在の静岡市葵区)で亡くなった。元和3(17)年、朝廷は「東照大権現」の神号(神としての名前)を宣下し、家康は文字通り「神の君」になった。江戸時代を通じ、家康を追慕する幕臣や諸藩の求めに応じて日光や久能山から分霊が勧請され、全国に東照宮は広がった。
 静岡市中心部には「日本で唯一」の枕詞(まくらことば)を持つ東照宮が存在する。「おせんげんさん」と親しまれる静岡浅間神社だ。名前に付かなくても、同神社は全国東照宮連合会に加盟する東照宮。同神社を構成する3本社の一つ、神部[かんべ]神社が家康を合祀[ごうし]し、また境内社の一つ八千戈[やちほこ]神社も家康を祭っている。「同一境内に二座の家康公を祭っているのは全国でここだけ」と誇らしげな掲示が並ぶ。
 神部神社への合祀は家康をあつく信仰した3代将軍家光が進めた。同時に日光東照宮を手がけた大工らによる社殿や楼門の大造営を実施し、家康、秀忠時代の建造物と合わせて「東海の日光」とたたえられた。その後、火災による焼失を経て、江戸後期に模して再建され現代に至る。
 同神社の北側に隣接する東雲[とううん]神社も、元は駿府城内にあったという東照宮を移設したもの。「丸山東照宮」の名で地域住民に親しまれている。 photo02 3代将軍家光の時代から徳川家康を祭る静岡浅間神社=静岡市葵区
旧幕臣の支え  明治維新により徳川家の権威は低下し、多くの東照宮が他の神社への合祀や廃絶の憂き目に遭った。一方、県内では新たな東照宮の建立という時流に反した動きが生まれた。駿河府中藩(後の静岡藩)の成立とともに江戸から移住した数万の幕臣たちが、苦しい新生活の中で心のよすがとした東照宮が県内各地に残る。
 長泉町元長窪の田畑と住宅の間に立つ小さな神社は、移住してきた旧幕臣約100家が1870年に建立した東照宮だ。現在は4家の子孫を中心に信仰を守り伝えている。
 氏子総代会長を務める伏見政義さん(66)もその一人。江戸の旗本だったという「伏見信保」ら先祖について「東照宮が開拓の中で心の支えとなっていたのでは」と推察する。例大祭でみこしを担ぎ、行事ごとに集会所として集まるなど、地元の東照宮に子供の頃から親しんできた。後継者不在など継承の難しさに直面しつつ「身近な神社だが、久能山や日光と同じ家康公を祭る東照宮だと思うと感慨深い」と話す。 photo02 東照宮社殿内に掲げられた旧幕臣が移住した当時の地図を眺める伏見さん=長泉町元長窪
御利益多様  明治から昭和初期には軍の新規入営者を祝う武運長久祈願祭が久能山で開かれるなど、多くの勝ち戦を収めた武家の棟梁[とうりょう]、征夷大将軍として軍神の側面からも尊ばれた。東照大権現に人々が求める役割は時代によって変遷をたどってきた。
 現在はどうか。久能山と日光は260年続いた太平の世を実現した「平和を築いた神」「平和の神」と位置づけている。特に久能山は明治時代以降、天下太平までの先達として織田信長と豊臣秀吉も併せて祭り、戦乱の世を終わらせた英傑としての家康像を前面に押し出している。 photo02 拝殿奥に見える扉の向こうに(左から)織田信長、徳川家康、豊臣秀吉がまつられている=静岡市駿河区の久能山東照宮
 久能山東照宮によると、家康は当時としては珍しい70歳を超える長生きだったことから、長寿を願う参拝者も多いという。立身出世に子孫繁栄、良縁祈願、商売繁盛、学業成就―。東照宮詣での御利益は家康の業績や故事に沿って多岐にわたる。
 (教育文化部・マコーリー碧水)
 

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