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徳川家康が築いた幕府の拠点・江戸 静岡の地名、首都に今も

 徳川家康の江戸城建築や城下町整備をきっかけに発展した江戸には、約260年間にわたり幕府の拠点が置かれた。江戸には静岡県ゆかりの地名があり、改称を経て東京都となった現在も残っている名前も。史料や識者への取材から地名の由来を探った。  浜松町-町名主の出身に由来
  photo02 「改正分間江戸大絵図」(東京都公文書館蔵・部分)/赤丸部分の拡大写真を90度回転。「ハマ松丁」の文字が読み取れる
 オフィスビルが立ち並ぶ日本のビジネスの中心地・東京都港区。同区浜松町は、遠江国浜松(現浜松市)にちなんで名付けられた。幕府の官選地誌「御府内備考」によると、浜松町は元々、久右衛門町と呼ばれていた。近くにある徳川家の菩提[ぼだい]寺「増上寺」の代官の奥住久右衛門が、町政をつかさどる役職「町名主」を務めていたことにちなむ。
 しかし元禄9(1696)年に久右衛門が退役。浜松生まれの権兵衛が後任となったため、町名が浜松町に改称された。東京都公文書館が所蔵する宝永5(1708)年当時の様子を示す地図「改正分間江戸大絵図」に「ハマ松丁」の表記があり、増上寺門前の町に古くから名が刻まれていたことが分かる。
 権兵衛の子孫が後を継がなかったため、20年ほど後に名主は別人に変わったが、浜松を冠した町名は現在まで続いている。ただ都内の一等地に浜松の名を残した権兵衛については、名字も浜松のどこに住んでいたのかも明らかでない。
 東京の地名の由来調査に携わった経験のある同公文書館史料編さん担当の西木浩一さん(63)によると、江戸には名主の姓名にちなんだ地名はあったが、その出身地に由来する事例は珍しいという。「なぜ権兵衛の名前でなく出身地名が町名になったのかは不明だが、そのおかげでウオーターフロントのおしゃれな町・浜松町のイメージがつくられたのは間違いない」と語る。
 神田駿河台-「駿河衆」説と「富士山」説
 東京都千代田区にある神田駿河台の名も、本県と関わりが深い。幕府の公式記録とされる史料「徳川実紀」によると、家康が駿河国(現静岡県中部)の駿府城で死去した後、城に勤めていた武士たちは江戸に移住した。その際、神田台と呼ばれていた同所近くの川を掘り改め、川辺の堤防をならし、宅地とした。
  photo02 広重による「名所江戸百景 水道橋駿河台」。富士山が描かれている(国立国会図書館の電子展示会「錦絵でたのしむ江戸の名所」より)
 駿河台の地名は、駿河から移住して「駿河衆」と呼ばれた武士団が屋敷を構えたことに由来するという説のほか、駿河国の富士山を望むことができたとする説もある。絵師の歌川広重が安政4(1857)年に駿河台の町を見下ろす構図で描いた「名所江戸百景 水道橋駿河台」にも霊峰の姿がある。
 同区公式サイトには、同所の武家屋敷跡地は明治時代になると華族や官僚の屋敷に変容したと記されている。昭和初期までは「駿河台西紅梅町」など「駿河台」と付く地名が6カ所あったが、昭和8(1933)年の町名変更で、神田駿河台のみとなった。 photo02 明治大構内で見つかった遺跡発掘の様子や出土品を紹介する常設展示。中坊屋敷は遺跡南側にあった=明治大博物館(同館提供)
 大学が集まる学生町に姿を変えた神田駿河台だが、江戸時代の歴史を今も見学できる施設がある。同所に立つ明治大博物館では、駿河衆の一人、中坊[なかのぼう]家ゆかりの品を見学できる。
 中坊家は、駿府町奉行や奈良奉行を輩出した4千石の旗本。同博物館では、1990年代に同大構内で見つかった中坊家屋敷跡を含む遺跡の模型や出土した陶磁器など約60点を常設展示している。同館学芸員の忽那敬三さん(49)=藤枝市出身=は「静岡と神田駿河台の縁を感じられる貴重な場所」と紹介する。
 (教育文化部・鈴木美晴)

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