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あの朝、一瞬でがれきの下敷き...広島で被爆、伊東の樺山公一さん ウクライナ「対岸」ではない【戦後78年しずおか】

 「ロシアのウクライナ侵攻は『対岸の火事』ではない。戦争はこの国でもかつてあったんです」

78年前、広島市で自身が被爆した付近を示す樺山公一さん=7月下旬、伊東市
78年前、広島市で自身が被爆した付近を示す樺山公一さん=7月下旬、伊東市

 伊東市の樺山公一さん(84)は1945年8月6日、広島市内で被爆した。これまで積極的に自身の経験を語ってこなかったものの、今改めて、被爆地から遠く離れた静岡でも平和の尊さを感じてもらいたいと強く願う。
 「ドーン」という音が聞こえたと思ったら、当時6歳の少年の体はあっという間にがれきに押しつぶされていた-。8月6日朝の原爆投下の瞬間は、鮮明に心に刻まれている。
 樺山さんは45年4月に現在の日本スポーツ協会職員だった父義雄さんの転勤で神奈川から広島へ移った。投下のその瞬間、樺山さんは隣近所に母の作った天ぷらを届けた帰り道だった。屋外にいたが、家と家の間の通路だったため、一瞬の閃光(せんこう)は直接浴びずに済んだ。
 幸いにもかすり傷程度で、自力でがれきを脱出した。爆心地から約2・5キロの自宅では身重の母と弟も無事だった。仕事の道中、広島駅にいた義雄さんはやけどを負った。樺山さんは自宅で再会を果たした際の父の言葉をはっきりと覚えている。「少しでもタイミングが違えば私の体もなかった」
 およそ1年後の46年9月。義雄さんは41歳の若さで亡くなった。「父がいればどんな言葉をかけてくれただろう」。人生の節目節目で樺山さんの胸にはそんな思いが去来した。
 樺山さんは会社を退職後に伊東に転居し、2021年に被爆者証明として交付される被爆者健康手帳を7年がかりで取得した。手帳取得の資料収集のため、広島平和記念資料館に足を運んだ。ただ、展示室には足を踏み入れたことはない。「とても行けません。いっときは経験を話すのもつらかった」
 手帳を医療機関で示すと、治療時に医療費の自己負担分が免除されるなどの措置が受けられるが、樺山さんが願ったのは、あの日あの場所にいたことを示す「人生の証明」。手帳は薄くとも、義雄さんとのわずか数年の幼い思い出を裏付ける“厚み”のある一冊といえる。
 5月の先進7カ国首脳会議(G7サミット)をはじめ、「広島」が政治利用されている、とも樺山さんは感じている。核兵器禁止条約を批准しない政府に苦言を呈する。ただ、被爆国として声を上げ続けなければ核はなくならないと説く。「核がどうすればなくなるか私も答えは分からない。ただ、自分の経験を伝えることが答えの一つにつながるかもしれない」。自らに言い聞かせるように言葉を紡いだ。

 手帳所持 静岡県376人
 広島市によると、3月現在で被爆者健康手帳所持者は広島、長崎を合わせて11万3649人。このうち静岡県は376人で、直接被爆者が264人、入市被爆者が60人、救護看護従事者が25人、胎内被爆者が27人。全国の新規交付者は2018年度が23人、19年度が13人、20年度が24人、21年度は65人。22年度は2614人と急増したが、広島原爆の「黒い雨」訴訟の原告を被爆者と認めた21年の広島高裁判決が要因という。

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