戦争と静岡の記事一覧

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真珠湾攻撃82年「慰霊の火消さない」 静岡浅間神社で式典 渡米断念の医師菅野さん企画
旧日本軍の真珠湾攻撃から82年となった8日、静岡市葵区の医師菅野寛也さん(90)が日米双方の犠牲者の慰霊式を同区の静岡浅間神社で開いた。菅野さんは例年米国ハワイでの慰霊行事に参列していたが、現地で支援してもらっていた関係者が亡くなり、今年は渡米を断念。それでも「慰霊、鎮魂の火を消したくない」と地元で慰霊式を企画した。 菅野さんは真珠湾攻撃から50年がたった1991年から新型コロナ禍などを除き12月8日(現地は7日)に合わせてほぼ毎年ハワイを訪れていた。しかし、今年に入って米軍施設で開かれる慰霊祭に同行してもらっていた退役米兵の訃報が届き、単身では出席が困難になったという。 菅野さんは静岡
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反戦の思い貫いた記録 元高校教諭の塚本さん遺稿集を発刊、仲間が編集
ロシアのウクライナ侵攻やパレスチナ問題、軍備増強を推し進める中国の動向など国際平和に緊張と不安が漂う中、生涯を通して反戦を訴え続け6月に急逝した元高校教諭、塚本清一さん(享年81)=藤枝市=の遺稿集が発刊された。3章仕立てで全175ページに及ぶ冊子には、教壇や地域でひたすらに平和を願い歴史を伝え続けた真摯(しんし)な思いが込められている。 塚本さんは太平洋戦争が勃発する1941年に御前崎で生まれた。戦後の米国占領下を経験して進学した静岡大教育学部の学生時代が60年安保闘争と重なり、社会変革の機運を痛感する学生時代を過ごした。卒業後は高校の社会科教諭として静岡県内各校で教えた。初任地の松崎
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「静岡大空襲を同世代に伝える」 SBS番組参考 静岡東高2年生4人、監修者や博物館取材
静岡市葵区の静岡東高2年生4人が授業の一環で、SBSテレビで放送中の市内の史跡や建造物などを紹介するミニ番組「静岡市歴史めぐりまち噺し」を活用し、戦争教育を巡る探究学習を進めている。番組制作関係者へのインタビューなど各地を訪問したり、同学年へのアンケート調査をしたりして、静岡大空襲を高校生に伝える効果的な発信方法を模索している。 「なぜ歴史を後世に伝えることが大事なのでしょうか」。25日、4人は同番組の歴史考証を担う市歴史博物館の中村羊一郎館長を訪ね、地域の歴史を学んで後世に伝える意義について質問した。真剣なまなざしで回答に耳を傾けたのは長田和佳奈さん(17)、太田明里さん(17)、児玉
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彼岸合わせ墓地跡清掃 浜松市遺族会、供養も
浜松市遺族会は20日、秋の彼岸に合わせ中区住吉の陸軍墓地跡の「住吉墓苑平和記念広場」で清掃と供養を行った。 戦争で亡くなった兵士や犠牲になった市民を悼む「英霊顕彰之碑」周辺で、草や伸びすぎた枝を刈り、落ち葉やごみを拾った。同遺族会によると同広場はかつて、戦没者を追悼する忠霊殿が建てられ、老朽化したため2005年に解体された。現在も約800の遺品が埋まる。 同遺族会は春と秋の彼岸に合わせて毎年、清掃を続ける。終戦の日の8月15日にも清掃していたが、近年は酷暑のため取りやめた。大石功会長(78)は「歴史ある場所が地域で忘れられないように活動していきたい」と話す。
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原爆の惨禍「知って」 静岡県庁別館 25日まで写真や絵画展示
広島、長崎への原爆投下の歴史とその悲惨さを伝える「原爆と人間」展(静岡県原水爆被害者の会など主催)が21日、県庁別館展望ロビーで始まった。25日まで。 核兵器のない社会の実現を目指して毎年開催し、今回で20回目を迎えた。広島市立基町高の生徒が被爆者の証言を基に描いた絵画や、当時の人々が「生き地獄のようだった」と表現する原爆投下直後の凄惨(せいさん)な様子の写真、市民が描いた絵画などが展示され、訪れた小学生らは一つ一つを食い入るように見つめた。 同会の石原洋輔会長(78)は「きのこ雲の下で実際にこんなことが起きていたと知ってほしい」と呼びかけた。「来場をきっかけに核廃絶への思いを深めてもら
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「三島にも戦争があった」市民の遺品など展示 23日まで
戦争の悲惨さを知り平和の尊さを学ぶ「第22回平和のための戦争展」(核兵器をなくし平和をつくる三島市民の会主催)が18日、三島市の市民生涯学習センターで始まった。23日まで。 「戦争と子ども」「核兵器のない平和な世界に」などテーマごとに資料を展示している。「三島にも戦争があった」のコーナーでは、戦時中に市内の農耕馬が軍馬として徴発された歴史を紹介。出征する愛馬のために市内で建てられた記念碑や供養塔の存在も伝えている。 市民から借りた国民服や帽子、かばんなどの戦争遺品も展示。物資がない時代に細かな文字で計算式が書かれた小さな紙の切れ端なども飾られている。
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平和の尊さかみしめ 終戦の日、静岡県中部各地で追悼式典【戦後78年 しずおか】
終戦の日の15日、県中部の各市町で戦没者を追悼する式典が行われた。市民や遺族らが出席し、戦争の悲惨さや平和の尊さをかみしめた。 島田市、平和願い活動 高校生が発表 活動を報告する高校生委員=島田市のプラザおおるり 島田市平和祈念式典(市平和祈念事業実行委主催)が15日、同市のプラザおおるりで行われた。運営に携わった市内の高校生が、平和への願いを込めて実施した活動の内容を報告した。 高校生委員として島田高と島田商業高の生徒6人が参加し、原爆ドーム(広島市)の保存活動に浄財を寄付する「募金ガチャ」などを企画した。ガチャガチャには平和をテーマにした缶バッジやステッカーを詰めた。2年連続
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平和への思い新た 静岡県東部各地で追悼式【戦後78年 しずおか】
終戦から78年を迎えた15日、県東部の各地で戦没者を追悼する式典が開かれた。遺族の高齢化が進み、ロシアのウクライナ侵攻が続く中、悲惨な戦争体験の継承や不戦の誓いを新たにした。 富士市 戦没者追悼式で平和を祈る遠藤さん=富士市のロゼシアター 富士市のロゼシアターで行われた戦没者追悼式には遺族や小長井義正市長ら約160人が出席。黙とうと献花をささげ、犠牲者3697人の霊を慰めた。 市遺族会を代表してあいさつした遠藤保豊さん(83)は、戦争で父親を失った悲しみと悔しさを語り「いまなお世界では争いが絶えない。改めて平和を祈る」と述べた。 富士宮市 戦没者に花を手向ける参列者=富士
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「繰り返さない」誓う一日 戦禍記憶継げ、次代へ 静岡県内各地で追悼式典
終戦から78年となった15日、静岡県内各地で戦没者の追悼式典が行われた。戦後の長い歳月とともに記憶の風化が進み、ロシアによるウクライナ侵攻の長期化など世界情勢が混沌(こんとん)とする中、戦争の悲惨さをどのように後世に伝えていくべきか-。戦地で肉親を失った遺族らは平和の尊さをかみしめながら、改めて継承への決意を新たにした。 沼津市の戦没者慰霊法要と追悼式典には約200人が出席した。父親をシベリア抑留中に亡くした同市遺族会の岡本忠会長(79)は「シベリアにはまだ多くの遺骨が眠っているのに、現地での慰霊は難しくなってしまった」と語り、今も続くロシアのウクライナ侵攻に心を痛める。 遺族会は会員の
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老朽化 消えゆく「戦争遺跡」 静岡・歩兵第34連隊 最後の施設解体【戦後78年 しずおか】
戦後78年がたち、戦争の記憶を伝える「戦争遺跡」が少しずつ姿を消している。旧陸軍の歩兵第34連隊(静岡連隊)が置かれた静岡市では今年、連隊関連の最後の建物だった旧訓練施設が解体された。戦争の悲惨さを感じさせる「実物」が消失することにより、記憶の継承を危ぶむ声が上がっている。 今年6月に解体されたのは「陸軍静岡練兵場訓練講堂」。1936年建築の木造平屋建て約50平方メートルの建物で、練兵場があった葵区城東町の住宅地の一画に残っていた。戦時中に兵器として使われた毒ガスに対応する訓練用の施設。建物の内部に催涙ガスをたき、連隊の兵士が防毒マスク装着を訓練したとの証言が残る。 戦後、練兵場跡地には
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終戦の日に合わせシンポジウム 陸上自衛隊、ウクライナの現状など講演 伊豆市
伊豆市社会福祉協議会は15日、終戦の日に合わせ、平和を考えるシンポジウムを同市の修善寺生きいきプラザで開いた。 陸上自衛隊の元陸上幕僚長で国家安全保障局の岡部俊哉顧問(64)とウクライナ出身で三島市を中心に国際交流に取り組む原アンナさんが講演。原さんは「ウクライナの美しさ」と題して、同国各地の風景写真と動画を交えながら生活や文化を伝えた。ロシアのウクライナ侵攻について「戦争が終わらないと前向きな気持ちにはなれない。世界の人たちに実情を理解してほしい」と話した。 伊豆市内外から約200人が参加した。シンポジウム終了後に全国戦没者追悼式の様子を放映。参加者は平和を祈り、黙とうをささげた。
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「ヒロシマ」で伝える市民たち 被爆国から願う平和【戦後78年 しずおか】
8月15日、唯一の戦争被爆国である日本は78回目の「終戦の日」を迎えた。国外に目を向ければロシアによるウクライナ侵攻は長期化し、為政者は核兵器の使用をちらつかせる。混沌(こんとん)とする世界情勢の中で、被爆地広島から平和を願う人々の胸にいま、去来するものとは-。現地から市民の声を伝える。 平和記念公園の案内役 祖父母が静岡にゆかり 粟村智幸さん 混沌の世界 今こそ語り続ける 平和記念公園の慰霊碑の前を案内する粟村智幸さん。ピースボランティアになると伝えた日に自身の体験を語った母美智子さんは今春、90歳で亡くなった=7月29日、広島市中区 「核は一瞬で多くの人々の生を無にする。巻き添
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駿府城公園の学徒慰霊碑「やすらぎの塔」 地震で破損、台座のみ20年超【戦後78年 しずおか】
太平洋戦争中に軍需工場などに動員され、空襲や機銃掃射で命を落とした学徒を追悼する駿府城公園(静岡市葵区)の「やすらぎの塔」(1958年建立)が、2001年の地震で学徒を模した立像が破損し、台座だけの状態が20年以上続いている。市民有志は復元を市に要望してきたが実現には至らず、戦禍を後世に伝える貴重な存在が埋もれていくことを懸念する。 厳しい日差しが照りつけた3日午前。市民有志「やすらぎの塔復元を求める会」は、台座後方にある動員学徒の犠牲者266人の名前が刻まれた碑の修復に取り組んだ。集まったのは大石久雄代表(81)=同市駿河区=ら戦時中に生まれた会員4人。名前が見えやすいよう碑全体に塗料
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静岡県内遺族の参列見送り 台風影響 全国戦没者追悼式
静岡県は14日、東京・日本武道館で15日に開かれる全国戦没者追悼式への県内遺族の参列を見送ると決めた。台風7号が同日に近畿から東海地方に上陸する恐れがあり、交通機関の乱れが予想されることや、参列者の安全を確保するために判断した。浜松市など県内の一部の市町は、例年市町主催で開いている平和祈念式典の中止を決めた。 全国戦没者追悼式には県内から県遺族会会長の大石功さん(78)ら54人が参列する予定だった。厚生労働省によると、台風の影響で、14日午後の時点で愛知や京都など計10府県が欠席を決めているという。 浜松市は中区のアクトシティ浜松で開催予定だった戦没者追悼平和祈念式の中止を決めた。市によ
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平和の尊さ 「すいとん」でかみしめて NPOが炊き出し 浜松市
浜松市南区のNPO法人「フリースクール空」は13日、太平洋戦争中に主食の代用とされた「すいとん」の炊き出しを中区の市南部協働センターで行った。過去の戦争や、今も続くロシアのウクライナ侵攻に関心を持ち、平和の尊さを考えてもらおうと企画した。スクールの生徒やスタッフ約10人が調理し、来場者に無料で振る舞った。 ニンジンやカボチャなどをふんだんに使い、野菜のだしが効いた優しい味付けに仕上げた。友人らと味わった馬渕君子さん(82)=同区=は「子どもの頃によく食べた。久しぶりで懐かしい気持ち」と語った。 会場では戦争に関連する漫画を展示したり、アニメ映画を上映したりした。ウクライナの子どもたちを支
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遺族会の思い どう後世に 平和の尊さ 伝承願う 浜松・水窪 会員減少 運営苦慮【戦後78年 しずおか】
戦後78年を迎え、戦争の記憶を語り継ぐ高齢者が県内でも減少している。山あいに位置する浜松市天竜区水窪町の町遺族会は今年6月、会員減を理由に年に1度の慰霊大祭の終了を余儀なくされ、毎年8月15日に開いている慰霊の集いも参加者が年々減るなど、会自体の運営が難しくなっている。町遺族会役員らは、戦争の悲惨さを後世にどう伝えるか答えを見つけられずにいる。 終戦記念日から4日前の8月11日、296柱の先祖が眠る慰霊塔を訪れた町遺族会の知久勝宣会長(81)は「昔は100人以上が終戦記念日に足を運んでいた。今はまばらになってしまった。遺族会以外で訪れる人はほとんどいない」とつぶやいた。元々は約300人い
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「平和の塔」清掃 反核訴え 清水地域勤労者協議会など 静岡市
清水地域勤労者協議会と清水憲法9条を守る会はこのほど、静岡市清水区の清水日本平運動公園入り口に設置されている「清水平和の塔」の清掃ボランティアを展開した。8人が参加し、金属彫刻を磨いたり、周辺の雑草を刈り取ったりした。 毎年8月の終戦記念日前に行っている。旧清水市議会が「非核平和都市宣言」を採択したのを機に、市民が行ったカンパなどにより1993年に完成した。関係者は「清掃を通じ、反核と戦争の悲惨さ、平和の尊さを市民に訴えていきたい」としている。
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平和の尊さ、作品で理解を 静岡・葵区で「文化の集い」
戦争の悲惨さや平和の尊さを絵画などの作品を通じて伝える「第7回静岡・平和をねがう文化のつどい」(劇団静芸など実行委員会主催)が11日、静岡市葵区のアイセル21で始まった。13日まで。 太平洋戦争で原爆が投下された広島の様子を描いた絵画やパネル、不戦の誓いを込めた短歌や俳句など約300点を展示した。原爆投下後の広島を描いた絵画は地元の高校生が手掛けた。倒壊家屋の下敷きになった女性に足をつかまれ助けを求められたり、無数の遺体がトラックの荷台に折り重なったりと、被爆者の実体験を基に情景を描写している。 実行委の吉沢はつ江さん(68)=同区=は「戦争は二度と起こしてはならないということを、作品を
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文字通りの地獄 父が見た広島 次代に継ぐ 伊豆の荻沢さん、19年ぶり式典【戦後78年 しずおか】
広島は6日、「原爆の日」を迎えた。静岡県遺族代表として広島市の平和記念式典に参列した伊豆市の荻沢はるみさん(63)は、父の稔さん(享年74)が旅立った翌年2004年以来の出席を果たした。原爆の悲惨さを語り続けた父の思いを継ぎ、核なき世界へ祈りを込めた。 1945年8月6日、旧制中学1年だった16歳の稔さんは広島市南部の造船所にいた。爆心地から約4・5キロ、午前8時15分。勤労動員で海上で作業中、鉄板の下にいたところに「ドーン」という大きな衝撃とともに閃光(せんこう)が飛び込んできた。キノコ雲が立ち上り、見渡す限り何もなくなっていた。恐怖でガタガタと震える稔さんの体。光が遮られ「まるで夜のよ
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「母の思い実感」清水さん(静岡)ら参列 広島原爆78年 平和記念式典
広島市で6日に営まれた平和記念式典には静岡県内の関係者も参列した。静岡市清水区の清水美由紀さん(70)の母、藤吉小百合さん(享年93)は12年前の本県遺族代表。「児童代表の言葉に胸を打たれた。母も同じ気持ちだったのだとようやく実感できた」とし、「母が願ったように、孫世代に平和の意義を語り継いでいく」と気持ちを新たにした。 県原水爆被害者の会副会長の松本潤郎さん(68)=静岡市駿河区=は、特に高齢者の出席を多く感じたという。「2世の自分が伝承役を果たさなくてはならないと強く胸に刻んだ」と言葉に力を込めた。 (下田支局・伊藤龍太)
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広島の思い この目で 耳で 本県の児童生徒 式典を前に学び【戦後78年 しずおか】
6日、広島市で開かれる平和記念式典に参列する本県の児童生徒が5日、同市に入った。市によると、今夏参列するのは三島と藤枝、掛川、袋井、森、磐田の6市町。「原爆の日」を前に被爆地の歴史を学んだ。 森町の小中学生4人は平和記念公園に足を運んだ。案内役の地元ボランティア金本隆子さん(73)から「若い世代が戦争の悲惨さを伝えていってほしい」と託された森中3年の山本惇太さんは、「自分だけが平和の尊さを知っていても、周りに教えなくては意味がない」と胸に刻んだ。 展望台を備えた「おりづるタワー」からの街並みを目に焼き付けたのは三島北中3年の長舟由紀さん。「焼け野原の状態を学んだので、復興へ大変な努力があ
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「あの日」の伝承 被爆2世の使命 松本さん(静岡)30年ぶり式典 きょう広島「原爆の日」【戦後78年 しずおか】
「あの日」から時は流れ、記憶を伝えてきた静岡県の被爆者たちの記憶は失われつつある。「伝承は被爆2世の使命です」-。県原水爆被害者の会副会長の松本潤郎さん(68)=静岡市駿河区=は38歳まで広島で暮らした。「原爆の日」の6日、広島市で開かれる平和記念式典におよそ30年ぶりに参列する。 式典前日の5日午後、松本さんは原爆ドームの前にたたずんでいた。「この場所は広島県民にとって特別な場所。悲惨な姿が残されたからこそ、平和の尊さを実感できるんです」。6日は静岡に居を移して以来、初めての式典参列となる。 松本さんは1994年の8月を今も忘れられない。仕事の都合で静岡市に転勤して初めての夏。家に帰っ
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平和へのバトン 体験語りつなぐ 地元被害に耳傾け 浜松市南区【戦後78年 しずおか】
浜松市南区飯田町の住民らでつくる「戦争体験を聞く会」は6日まで、戦争の悲惨さと平和の尊さを伝える「戦争と平和展」を地元の東部地区体育館で開いている。5日は3人の戦争体験者が約40人を前に当時の様子を語った。 太平洋戦争末期、多くの犠牲者を出した浜松大空襲を体験した水谷俊子さん(90)=中区=と桑山源龍さん(92)=同=、東京大空襲を体験した渡辺村子さん(88)=浜北区=が登壇した。 小学3年生だった水谷さんは空襲で馬込川方面に親戚と逃げる中、近くに落ちた爆弾で、真横にいた5歳のいとこが亡くなった。「思い出すと震えが止まらない。今でもはっきりと覚えている」と声を震わせ、「戦争はあってはなら
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平和へのバトン 体験語りつなぐ 広島被爆の惨状伝承 掛川で藤川さん講話【戦後78年 しずおか】
「ヒロシマを知る平和のつどい」(同実行委主催)が5日、掛川市立中央図書館で始まった。広島市の平和記念公園などでガイドを務める伝承者の藤川晴美さんが被爆者の体験を語り、参加した市民ら約50人が戦争や原爆の恐ろしさに触れた。 藤川さんは、爆心地から540メートルの距離で被爆しながら助かった寺前妙子さん=当時(15)=を紹介。原爆投下後、寺前さんが左目がつぶれ、顔が裂かれる中、先生と一緒に川を渡って金輪島へ逃げたことを話した。藤川さんは平和のために「事実を知ることが大切。自分の考えを持ってほしい」と伝えた。 6日には同所でアニメ「はだしのゲン」の上映会を午前10時と午後2時から2回行う。
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核の恐怖 古里に訴え 広島在住、静岡県出身者の「県人会」発足40年【戦後78年 しずおか】
広島在住の静岡県出身者らで組織する「広島静岡県人会」が今年、発足40年を迎えた。会長は元ヤマハ社員の柴田禎司さん(79)=広島県廿日市市=。「原爆の日」を前に「8月6日は平和の尊さや核兵器の恐ろしさを考える1日にしてほしい」と古里へ訴える。 同会は1983年発足。元プロ野球広島で同年主力に定着した長嶋清幸さん(61)=自動車工高(現静岡北高)卒=を支援する本県関係者の後援会設立を機に、誕生した。 広島市で開かれる全国都道府県対抗男子駅伝の本県代表の応援に力を入れていて、選手団の慰労会開催のほか、レース会場周辺で本県の特産品販売も実施してきた。森町・天宮神社の国指定重要無形民俗文化財「十二
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平和の尊さ 広島で考えたい 6日の式典参列 掛川、藤枝、森の児童生徒【戦後78年 しずおか】
新型コロナウイルスの5類移行後初めての夏を迎え、静岡県内各市町による広島市の平和記念式典への児童生徒の派遣が、コロナ禍前の水準に戻りつつある。4年ぶりに6日の式典に小中学生を派遣するのは掛川、藤枝、森の3市町。行政、教育関係者は「現地でしか分からないことを感じてきてほしい」と期待する。 7月20日、掛川市の城東中の校内で、同市訪問団メンバーの3年堀川那々帆さんと寺田希瑠[のえる]さんが、全校生徒約200人で作った千羽鶴を確認していた。同市は城東と原野谷、西の3中学から各2人を派遣する。 幼少期から祖母の戦時中の経験を伝え聞いてきた堀川さんにとって、訪問団への立候補は自然な流れだった。「
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被爆の惨状「あなたが伝えて」 2世の清水さん(静岡・清水区)亡き母の足跡たどる 広島平和式典へ【戦後78年しずおか】
今年1月に亡くなった母の分まで戦争の悲惨さを語り継ぎたい-。広島市の平和記念式典に初めて参加する静岡市清水区の清水美由紀さん(70)は、特別な思いで8月6日を迎える。清水さんの母は2011年の同式典に静岡県遺族代表として出席した藤吉小百合さん(享年93)。生前、母から被爆の体験を聴いた清水さんは、導かれるように今夏“ヒロシマ”を訪れ、母の人生の足跡をたどる。 戦時中、小百合さんは静岡市内の自宅が空襲で焼け、親類の住む広島県北部に転居。広島市中心部の女学校に転校し初登校の日が8月6日だった。学校に向かうバスを待つ間に南の空にキノコ雲を見た。救護活動で爆心地そばに入り被
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あの朝、一瞬でがれきの下敷き...広島で被爆、伊東の樺山公一さん ウクライナ「対岸」ではない【戦後78年しずおか】
「ロシアのウクライナ侵攻は『対岸の火事』ではない。戦争はこの国でもかつてあったんです」 伊東市の樺山公一さん(84)は1945年8月6日、広島市内で被爆した。これまで積極的に自身の経験を語ってこなかったものの、今改めて、被爆地から遠く離れた静岡でも平和の尊さを感じてもらいたいと強く願う。 「ドーン」という音が聞こえたと思ったら、当時6歳の少年の体はあっという間にがれきに押しつぶされていた-。8月6日朝の原爆投下の瞬間は、鮮明に心に刻まれている。 樺山さんは45年4月に現在の日本スポーツ協会職員だった父義雄さんの転勤で神奈川から広島へ移った。投下のその瞬間、樺山さんは隣近所に母の作った天
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静岡市長 平和資料センター視察 所蔵品保管場所 提供前向き
静岡市の難波喬司市長はこのほど、同市葵区の静岡平和資料センターを視察した。同センターを運営する市民団体「静岡平和資料館をつくる会」は所蔵する資料約6千点の保管場所の提供を求め、難波市長は「早急に探したい」と応じた。 7月中旬に同会の鍋倉伸子代表が難波市長にあいさつに訪れたことをきっかけに、視察が決まった。 難波市長は同センターを初訪問し、田中文雄センター長の案内で、同市出身の軍人の遺品や1945年の静岡空襲を体験した市民による絵などの展示を鑑賞した。同団体の取り組みについて「長らく重要な活動をしていて敬意を表する。若い世代に戦争の記憶を継承することは大切」と話した。
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平和願い「静岡空襲」写真展示 袋井市役所、焼夷弾や防空頭巾も並ぶ
安心して暮らせる社会づくりなどに取り組む袋井市勤労者協議会(桑原清剛会長)の「平和写真展」が10日まで、市役所市民ギャラリーで開かれている。 「静岡空襲と市民生活」をテーマに、戦時下の資料などの展示を通じて戦争の恐ろしさや平和の尊さを訴えている。1945年の静岡空襲後の静岡市内を撮った航空写真や投下された焼夷(しょうい)弾、当時の防空頭巾など約40点が並ぶ。世界の平和度指数を示した地図も展示し、来場者が足を止めている。 平和事業の一環で毎年開催していて、15回目。桑原会長は「戦争で得られるものはなく、犠牲者を生むだけ。戦争を知らない世代に悲惨さを広めていきたい」と話した。
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島田空襲の犠牲者を慰霊 住民ら、祈念碑に誓い
島田市は26日、島田空襲被爆者慰霊のつどいを同市扇町の扇町公園で開いた。犠牲者の氏名が刻まれた平和祈念碑「平和之礎」の前で、住民らが平和への誓いを新たにした。 出席者全員で黙とうをささげた後、島田第二小6年の永房知紘さん(12)が平和への誓いを読み上げ、「平和な世界をつくるために、まずは学校生活から、友達を傷つけることはしないように意識したい」と述べた。 今年は初めてボーイスカウトが協力し、金谷第1団の林大善さんと桜井孝頼さんが市平和都市宣言を朗読した。 島田空襲は太平洋戦争末期の1945年7月26日朝、扇町に長崎型原子爆弾の模擬爆弾とされる約4・5トンの爆弾が投下され、少なくとも47
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「いつ上に爆弾が」「今も戦争怖い」 静岡・清水三保第一小 高齢者が体験伝承
静岡市清水区三保の清水三保第一小で26日、近隣のデイサービス「そな~れ」を利用するお年寄りを招いた「戦争体験交流伝承授業」が行われた。92歳から99歳までのおばあさん4人が来校し、戦時中の経験について児童に語り聞かせた。 窪田美代子さん(99)と鈴木美江さん(94)、堀ひさ子さん(93)、青島ことさん(92)が体育館を訪れ、6年生約40人を前に授業した。第2次世界大戦中の空襲を受けたことなどを描いた紙芝居や、体験談の朗読の後に児童の質問に答えた。蚊に刺されながら急ごしらえした防空壕(ごう)やその中で「いつ上に爆弾が落ちてくるか分からないと頭がいっぱいになった」こと、玉音放送を聞いて「とにか
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平和への誓い新た 湖西で戦没者追悼式
湖西市はこのほど、本年度の戦没者追悼式を市健康福祉センターおぼとで行った。市遺族会の代表者ら約20人が参列し、戦禍で犠牲になった人を追悼し、平和への誓いを新たにした。 遺族会からは市内6地区の役員らが参列し、黙とうの後に一人ずつ献花を行った。影山剛士市長は、「現在の平和と繁栄は戦禍の重い犠牲の上に築かれた。戦争の悲惨さと平和の尊さを風化させず、次世代に継承するのが今の私たちの使命」とあいさつした。遺族会の鈴木成幸会長は「戦争をしない国、自由に物が言える国を子や孫に残さなければならない」と述べた。 市によると、市内の戦没者は千人超という。
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戦没者108柱を追悼 浜松・天竜区龍山町で慰霊祭
浜松市天竜区龍山町の龍山地域戦没者を慰霊する会は25日、戦没者慰霊祭を同町の慰霊碑前で開いた。出席した会員ら8人は、戦争で犠牲になった家族や地元出身者を追悼し、平和の大切さを新たにした。 西南戦争から第2次世界大戦までの戦争で亡くなった旧龍山村(現・龍山町)出身者の108柱の英霊に追悼の意をささげた。 同町の永源寺住職の松本尚武さん(78)が読経した後、参列者は一人ずつ慰霊碑の前に立ち、静かに手を合わせた。同会代表の滝山文男さん(80)は「3歳の時に父を戦争で亡くした。慰霊祭でまつられている方々の存在は忘れられてはならない」と話した。 同会は、遺児を中心に構成している任意組織で、201
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静岡空襲の犠牲者追悼 平和へ誓い新た 静岡・賤機山で日米合同慰霊祭
太平洋戦争末期の1945年6月、静岡空襲で犠牲になった市民約2千人と、爆撃中に空中で衝突し墜落死した米軍B29爆撃機の搭乗員23人を追悼する日米合同慰霊祭が24日、静岡市葵区の賤機山山頂で営まれた。遺族や自衛隊、在日米軍横田基地関係者ら約100人が参列し、恒久平和へ誓いを新たにした。 参列者は、黙とうと両国の国歌斉唱に続いて祭壇に向かって焼香した。墜落時の衝撃で米兵の手形が生々しく残り、黒く焼け焦げた遺品の水筒にバーボンウイスキーを入れ、慰霊碑に注ぐ献酒や米政府から贈られたハナミズキへの献水も行った。 72年から約50年にわたり同式典を主催する同区の医師菅野寛也さん(89)は、ロシアによ
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社説(6月24日)浜松、静岡大空襲 戦禍の記憶 継承注力を
6月18日未明の浜松大空襲、20日未明の静岡大空襲から78年が経過した。市街地を狙った米軍爆撃機B29の夜間焼夷[しょうい]弾攻撃で多くの家々が焼き払われ、幼い子どもも含め、合わせて3千人以上が亡くなった。郷土が巻き込まれた太平洋戦争の凄惨[せいさん]な事実を決して忘れてはならない。 戦争を体験した世代の高齢化が進み、記憶をいかに後世に伝えるかが差し迫った課題となっている。二度と戦争をしないとの強い意志を次代へ語り継ぐ必要がある。行政は民間の活動支援から一歩踏み込み、主導的な立場で戦禍の記憶の継承に注力すべきだ。 浜松市は本年度、戦後世代を対象に「次世代の語り部」育成を始める。戦争体験を
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殉職看護師の志継ぐ 静岡市立病院で空襲犠牲者慰霊式 誓いのキャンドル
静岡市立静岡病院(葵区追手町)は20日、1945年6月の静岡大空襲で犠牲になった患者と看護師を追悼する慰霊式と継灯式を同病院で開いた。看護師や病院職員らが参加し、殉職した先輩たちの志を受け継ぐことを誓った。 慰霊式には約40人が参列し、1人ずつ慰霊碑に花を手向けた。小野寺知哉病院長は「戦禍で尊い命をささげた看護師たちはどれだけ怖く、熱く、痛かっただろうか」と殉職看護師に思いをはせ、「患者やスタッフに優しい病院として、思いを継いでいきたい」と追悼の言葉を述べた。 当時、仲間を失いながらも患者や被災者の治療を続けた関係者の志を引き継ぐ継灯式には、新人看護師46人が参加した。青山治子看護部長ら
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命の尊さより一層 浜松大空襲78年 市戦災死者慰霊祭
太平洋戦争末期の1945年6月の浜松大空襲から78年を経た18日、浜松市戦災遺族会(飯田末夫会長)は市戦災死者慰霊祭を中区のホテルで行った。参列した遺族らが献花で犠牲者を追悼するとともに、昨年から続くロシアのウクライナ侵攻も踏まえ、平和の尊さへの思いを一段と強めた。 飯田会長は「未来を担う子どもたちのために、平和な世の中をつくっていきたい」と述べた。浜松修学舎高2年の鈴木祐香里さんと内山日鶴さんは「空襲によって14人の先輩が命を落とした」「平和への思いがこもったたすきを、つないでいく」と誓った。 ウクライナから市内に避難しているヴィーラさんも参列し、「戦争で日常を失った。浜松のまちが昔
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静岡空襲「道に遺体 怖かった」 葵区で犠牲者追悼のつどい 経験者3人 悲惨さ訴え
戦災の伝承活動に取り組む市民団体「静岡平和資料館をつくる会」は18日、1945年に市民約2千人が亡くなった静岡空襲の「犠牲者追悼のつどい」を静岡市葵区の静岡平和資料センターで開いた。黙とうと献花を行ったほか、静岡空襲などの戦災を経験した3人が戦争の悲惨さを訴えた。 同区の小長谷実さん(95)、尾白み江さん(93)と磐田市の朝比奈正典さん(85)が語り部を務め、同会会員ら約20人が参加した。 旧国鉄静岡駅で働いていた小長谷さんは、空襲警報が鳴るたびに防空壕(ごう)への避難を繰り返した経験を語った。空襲後に駅前に出ると、街全体がすさまじい炎に包まれていた。街が燃え尽きた後には駅前から駿河湾や
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葵区・西蔵寺で慰霊 静岡空襲で犠牲の2千人追悼
太平洋戦争末期の静岡空襲で犠牲になった市民約2千人を追悼する慰霊法要が17日、静岡市葵区の西蔵寺で営まれた。 立花義彰住職が読経し、参列者が同寺に安置されている「被災地蔵尊」を前に焼香をあげた。被災地蔵尊は空襲で頭部を失うなど損壊していた地蔵尊を修復したもの。被災60年の2005年に開眼法要を行い、毎年慰霊法要を行っている。 立花住職は「犠牲者には遺族がいない方も多い。私たちが祈りをささげることで追悼できれば」と話した。
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戦後世代、教訓伝える側に 戦争の語り部 浜松市が育成
浜松市と市戦没者追悼平和推進協会は本年度、太平洋戦争の体験者に代わって教訓を語り継ぐ「次世代の語り部育成事業」を始める。市内で語り部を務める戦争体験者は既に80代後半以上で、活動は年々困難になっている。意欲ある16歳以上の市民を募り、研修を経て語り部の役割を担ってもらう。 浜松復興記念館(中区)で10月から来年3月まで8回の講習を開く。内容は体験者への聞き取り、戦争研究の専門家による講義、スピーチや原稿作成の練習など。体験者の話を伝えるだけでなく、受講者自身が関心のある分野を突き詰め、自分の言葉で語れるよう同協会が学びを支援する。修了後は同記念館や学校などで講師を務めてもらう。 同協会の
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水窪の戦没者慰霊大祭廃止 後継者不在、高齢化で負担大きく 遺族会「仕方ない」
浜松市天竜区水窪町の町遺族会は5月、終戦直後からコロナ禍の前まで毎年6月に実施していた慰霊大祭の廃止を決めた。会員の減少で会場を準備する負担が大きくなり、毎年の開催が困難となったためだ。ことしの開催予定日だった今月2日は慰霊塔を開扉し、遺族関係者が訪れてそれぞれ追悼した。会員は「時代の流れ。後継者がいないことは仕方がない」と受け止める。 慰霊大祭は日清戦争以降の戦争で命を失った旧水窪町出身の296柱の英霊に哀悼の意をささげている。同遺族会は1946年に設立され、創設当時の会員は約300人いたが、現在は約120人と減少する一方だ。5月中旬に開かれた遺族会の評議委員会で、慰霊大祭の廃止案が議題
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空襲犠牲者に平和誓う 磐田農高、磐田北小で慰霊祭「日本、世界へ広める」
太平洋戦争末期の1945年5月19日の空襲で犠牲になった児童生徒らを追悼する慰霊祭が19日、磐田農業高(磐田市中泉)と磐田北小(同市見付)で営まれた。在校生や空襲経験者、地元住民が冥福を祈り、平和への誓いを新たにした。 実習作業中の生徒5人が亡くなった磐田農業高の慰霊祭では、授業開始前に全校生徒が黙とうをささげ、代表生徒らが校内の慰霊碑前にバラの花を供えた。爆弾で亡くなった同級生を目の当たりにした鈴木巌さん(91)=同市大中瀬=は「学校のすぐ近くに爆弾が落とされ、急いで防空壕(ごう)に飛び込んだ。土煙が上がる光景や負傷して苦しんだ友人が忘れられない」と当時を振り返り「あんなにつらい思いをす
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戦争体験を絵画に 浜松出身の画家中村さん、都内で新作展
浜松市出身の画家中村宏さん(90)の新作展「戦争記憶絵図」が16日から、東京・銀座の「ギャラリー58」で始まる。6月3日まで。浜松市で終戦を迎えた中村さんが、自身の戦争体験を描いた10点を展示する。 開催に先立ち、中村さんが関係者に作品解説を行った。空襲を描いた作品では、爆撃機を建物よりも極端に大きく描き、威圧感や恐怖感を表現した。米軍艦隊による遠州灘からの艦砲射撃を題材にした作品もあり、「砲撃の音と、夜空に反射した火柱の明かりを覚えている」と語った。当時拾ったという機銃弾の薬きょうも展示している。 中村さんは沖縄戦などをモチーフにした作品を発表したことはあったが、自身の体験を描くのは初
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空襲犠牲の生徒ら追悼 浜松・西遠女子学園 平和の大切さ考える
浜松市中区の西遠女子学園中・高は12日、太平洋戦争で亡くなった生徒と教員を追悼する「殉難学徒慰霊式」を校内で行った。全校生徒約320人が犠牲者を悼むとともに、昨年2月から続くロシアによるウクライナ侵攻を踏まえ、平和の大切さを考えた。 同校によると、太平洋戦争末期の1945年4月30日と5月19日、米軍爆撃機による浜松市への空襲で、軍需工場に学徒動員されていた生徒29人と引率教員1人が亡くなった。式では、生徒が持ち寄った花々や手作りの折り鶴を飾った祭壇を前に、出席者が黙とうをささげ、殉難生徒らを悼む歌を合唱した。 高校生徒会の谷山栖美礼会長(2年)は「世界中の人々が平和を感じられる日の到来
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取り壊された戦争遺跡を音声ガイド 島田・牛尾実験所跡 若者の声と技術、郷土史紡ぐ
取り壊された旧海軍の極秘研究実験所跡の歴史を若者の声と現代技術で語り継ぐ―。太平洋戦争中に島田市に存在し、強力電波兵器を研究した戦争遺跡「第二海軍技術廠(しょう)牛尾実験所跡」をはじめ、歴史遺産を後世に伝えようと、島田近代遺産学会(新間雅巳代表)が地元高校生やベンチャー企業と協力し、音声ガイドを制作した。跡地近くにQRコード付き看板を設け、スマートフォンで読み込むと、いつでもどこでも歴史に耳を傾けることができる。 同実験所跡は2015年に国による大井川の河道拡幅工事で取り壊された。近くに説明板はあったものの、「戦争遺跡の風化が危惧されていた」(新間代表)という。そんな中、静岡市のベンチャー
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ビキニデー集会3月開催 4年ぶり、焼津や静岡で
焼津港所属の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が米水爆実験で被ばくした3月1日に合わせ行われる「3・1ビキニデー集会」の県実行委員会は14日、同集会と関連行事を4年ぶりに、焼津市や静岡市駿河区のグランシップで開催すると発表した。 JR焼津駅南口から第五福竜丸元無線長、久保山愛吉さんの墓がある弘徳院までを歩く墓参行進を午前9時半から展開し、同院で墓前祭を行う。午後1時半からグランシップで行う集会は、第五福竜丸を題材とした落語やビキニ環礁があるマーシャル諸島の元国会議員による講演などを予定している。グランシップではビキニデーに先立ち、27、28日に原水爆禁止日本協議会主催の全国集会や国際交流会議も行
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戦時中の勤労動員語る 浜松の中山さん「戦争はもう見たくない」
太平洋戦争中に浜松聾唖学校(現浜松聴覚特別支援学校)に在籍していた浜松市中区の中山孝さん(90)が20日、南区の東部地区体育館で開かれた第9回戦争と平和展(戦争体験を聞く会主催)で、軍需工場に動員された体験を来場者約50人に語った。仕事や空襲を振り返り「学校に言われて働いたけど、本当は嫌だった。戦争はもう見たくない」と平和の尊さを語った。 中山さんは1944年、学校の指示で現在の中区野口町にあった工場で他の児童生徒らと働き始めた。任されたのは鉄のやすりがけ。勉強の中断はつらく、仕事の昼休みに学校の教員が工場に来て算数を教えてくれた。 戦況が悪化すると、敵機の襲来が増えた。難聴の中山さんは
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戦争犠牲の同窓生を追悼 香陵同窓会、平和願い校歌斉唱
沼津市の沼津東高と前身の旧制沼津中の卒業生でつくる香陵同窓会は20日、太平洋戦争などで犠牲となった同窓生らを追悼する平和祈念式典を沼津市民文化センターで開いた。コロナ禍で3年ぶりの開催で、会員や遺族ら約30人が参列した。 同窓会の小野毅会長は式辞で「海外でも戦争が続く。恒久平和を祈る」とあいさつした。同校2年の竹野谷優月さん(16)は平和記念宣言として「戦争の過ちを二度と繰り返さないと誓う」と述べた。平和への思いを込め全員で校歌を斉唱した。
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資料やパネルで非核と平和訴え 藤枝で巡回展
核廃絶や平和を呼び掛ける巡回展「非核・平和写真展」(非核平和都市ふじえだ・市民の会主催)が20日、藤枝市の稲葉地区交流センターで開かれた。23、24日に葉梨地区交流センター、29、30日には市生涯学習センターで開催する。 同会や静岡平和資料センターなどが所蔵する資料を展示した。戦時中の暮らしを紹介する服飾品や、軍靴やかぶとといった装備品、遺書などがある。 広島平和記念資料館から貸し出しを受けたパネル30枚も並び、原爆投下後の広島と長崎の様子や、被害の大きさなどを伝えている。 各会場で、昭和時代の歴史を伝える映像の放映や、戦争体験を伝承するお話会なども行う。
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戦地から家族へ思い 兵士の手紙展示 御前崎市立図書館21日まで
太平洋戦争のさなか、出征中の兵士が故郷の家族に宛てた手紙やはがきが御前崎市立図書館(同市池新田)で展示されている。21日まで。 10~21日の「ヒロシマ・ナガサキ被爆写真展」に合わせて、実行委員が所有者の協力を得て展示した。手紙を書いたのは1945年6月、フィリピン南部ミンダナオ島で27歳で戦死した小笠郡池新田町合戸(現御前崎市合戸)の藤原正作さん。身重の妻や義父に対して「十分に銃後の守りをやって下さい」と戦争の後方支援を呼び掛ける一方、「子供が生まれたらすぐ知らせて下さい」と出産を待ち望むくだりもあり、父親としての心情がにじむ。 原子爆弾が投下された広島、長崎の被害などを伝える写真や絵
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「核兵器ない世界」程遠く 被爆者ら憤り
隣国に攻め入り、核兵器の使用をちらつかせるロシア。唯一の被爆国でありながら米国の「核の傘」に頼る日本は、核兵器を全面違法化した核兵器禁止条約を批准せず、6月にオーストリアの首都ウィーンで開かれた第1回締約国会議にはオブザーバー参加もしなかった。「核兵器のない世界の実現」には程遠い現状に、被爆者や核廃絶を目指す若者は憤りの声を上げる。 山本定男さん 「まさか使うようなことを言うとは」。山本定男さん(91)=広島市東区=はロシアのプーチン大統領の威嚇にため息をついた。自身は14歳の時に被爆し、顔と手をやけどした。上空に巨大な火炎がわき上がる光景を今でも鮮明に覚えている。「核兵器を使うとこ
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ヒロシマで平和を希求する人々 被爆体験伝承へ新たな一手
広島市主催の記者研修「ヒロシマ講座」(7月28日~8月7日)に参加し、77年前の被爆の実相に触れた。ロシアのウクライナ侵攻で核兵器が現実的な脅威となり、核抑止論が国内でも浮上する中、被爆地は「核兵器は廃絶こそ唯一の解決策」との訴えを一層強くした。凄惨(せいさん)な記憶を継承し、平和を希求する人々の取り組みや思いを報告する。(御前崎支局・木村祐太) 家族「語り部」に 市が養成制度 被爆体験の伝承事業を行っている広島市は本年度、被爆者の家族を伝承者として養成する制度を新設した。これまで伝承事業は実体験を持つ「被爆体験証言者」と、証言者から体験や思いを聞き取って代わりに語る「被爆体験伝承者」が
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広島・原爆死没者慰霊碑の前で聞く 「あなたは何を思いましたか?」
広島原爆の日の8月6日に合わせ、広島市中区の平和記念公園には今年も多くの人々が訪れた。核兵器をめぐり世界情勢や国内世論が揺れ動く中、犠牲者をまつる場所で何を思ったのか。2~7日、「過ちは繰返しませぬから」と刻まれた原爆死没者慰霊碑の前で手を合わせた人たちに尋ねた。 2日 午後7時ごろ、奈良県の会社員伊藤成弘さん(37)は山口県内の実家を訪ねた帰路で立ち寄った。「そのまま帰ってもよかったけど、平和というものを再認識したくて」。10年前に亡くなった被爆者の祖父を思い、「もう少し話を聞けばよかった」と悔やんだ。 3日 正午ごろ、兵庫県の歯科医院経理鈴木養子さ
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大好きな絵諦め 竹やり握った少年時代 自由に描ける世続いて 浜松の伊藤さん、最初で最後の個展【しずおか戦後77年】
60歳を過ぎて絵筆を握った91歳の愛好家が「最初で最後」だという油彩画展を、浜松市浜北区の県立森林公園ビジターセンター「バードピア浜北」で実現させた。同区の伊藤清さん。「子どもの頃からずっと絵が好きだった」が、第2次大戦中は絵筆でなく竹やりを持たされ、敵兵を倒す訓練に明け暮れた。郷里や旅先の風景を穏やかな筆致で表現した作品には、自由に絵が描ける平和への切なる思いが込められている。 高架下からのぞく朝焼けに染まった空、広がる茶畑の向こうの稜線(りょうせん)、しだれ桜の薄桃色をほんのりと映す川。会場に約20点が並ぶ。いずれも伊藤さんが60歳を過ぎて本格的に絵画を学んだ成果だ。 伊藤さんは「い
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不戦、平和の大切さ改めて 終戦77年 静岡県内各地で追悼
終戦から77年となった15日、県内各地で追悼式典が行われた。家族を失った悲しみを抱えて参列した遺族は、ロシアのウクライナ侵攻や台湾を巡る情勢が緊迫化していることなどを踏まえ、戦争の不毛さと平和の大切さを訴えた。強い日差しが照りつける中、参列者たちは「人間の尊厳が無視される戦争を二度と繰り返さない」との思いを強くした。 静岡市主催の式典で追悼の辞を述べた市静岡遺族会監事の為貝宏邦さん(79)。父超禅(ちょうぜん)さんはパプアニューギニアで戦死した。空爆で被弾し破片が体に刺さった。十分な手当てを受けられず息を引き取ったという。当時、宏邦さんは1歳。「戦争遺児の多くは父の胸のぬくもりすら知ること
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不戦誓い、戦没者追悼 焼津/藤枝/島田で式典
終戦から77年を迎えた15日、静岡県中部の各地で戦没者を追悼する式典が行われた。参列者は戦争で犠牲になった人々を悼み、平和への祈りをささげた。 ■焼津市 焼津市は15日、戦没者追悼式・平和祈念式典を同市三ケ名の焼津文化会館で行った。戦没者遺族ら約200人が参列し、戦没者を追悼した。 市遺族会の永田実治会長が追悼の言葉で、戦後77年が経過し、戦争を知らない世代が増えていることを指摘し「次の世代に語り継いでいかないといけない」と訴えた。中野弘道市長も戦争体験の風化を懸念し「戦争という過ちを起こさないために恒久平和の実現に取り組んでいく」と誓った。 市自治会連合会の岩崎四郎会長が核兵器や
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戦争の記憶、継承誓う 掛川/菊川/磐田で式典
77回目の終戦の日を迎えた15日、静岡県西部の各地で戦没者を追悼する式典が営まれた。市民は悲惨な戦争の教訓をかみしめ、平和への誓いを新たにした。 ■掛川市 掛川市では、市生涯学習センター(同市御所原)で戦没者追悼と平和祈念の式典が開かれた。遺族会の役員ら約120人が黙とうし、英霊に献花した。 市内の戦没者は2931人。2021年度の「平和を考える自由研究」の作文部門で最高賞を受賞した東中1年石川星来さんと西中3年八ツ繁佳奈さんがそれぞれ自身の作品を発表し、戦争の記憶の継承を誓った。 ■菊川市 菊川市は2022年度、例年8月の追悼式と秋に菊川、小笠の各地区で開催されていた慰霊祭の
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平和への思い新た 富士/裾野/長泉/小山/清水町で追悼式
終戦から77年となった15日、県東部の各地で戦没者を追悼する催しが開かれた。ロシアによるウクライナ侵攻が続き、台湾情勢が緊迫化する中、参列者はあらためて不戦を誓い、平和への思いを新たにした。 ■富士市 富士市のロゼシアターで営まれた戦没者追悼式は小長井義正市長ら約140人が出席。犠牲者3697人の霊を慰めた。遺族会の本多光雄副会長(85)は戦争で家族を失う悔しさをにじませ「戦争の愚かさ、平和の尊さをかみしめ、次の世代に語り継ぐ責務をみ霊の前で誓いたい」と慰霊の花をささげた。 (富士支局・宮城徹) ■裾野市 裾野市は新型コロナウイルスの感染防止対策で参列者を約40人に限定し、市民
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ヒロシマに名刻む 動員学徒慰霊塔に静岡県の62校 「後世に」関係者誓う
原爆ドーム(広島市中区)の南側に立つ「動員学徒慰霊塔」は太平洋戦争で同市に投下された原子爆弾だけでなく、空襲などで命を落とした全国41都府県の動員学徒の霊をまつる。死没者の出身校が刻まれ、静岡県の62校の名前もある。戦後77年を迎えた今夏、関係者は志半ばで亡くなった若者を改めて思い、後世に語り継ぐことを誓った。 慰霊塔は1967年に広島県動員学徒等犠牲者の会が建立した。高さ12メートルの塔の他に、食糧増産や鉄工作業などの風景を描いたレリーフがあり、その裏に亡くなった全国の動員学徒の出身校351校が記されている。広島市内には原爆関連の慰霊碑や詩碑などが約200基あるが、慰霊の対象を全国に広げ
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平和への誓い新た 終戦の日 静岡県内各地で追悼式典
終戦の日の15日、静岡県内各地で戦没者の追悼式典や慰霊法要が営まれた。ウクライナや東アジアの情勢が緊迫する中、参列者は平和への誓いを新たにした。 静岡市駿河区のグランシップで営まれた「市戦没者を追悼し平和を祈念する式典」には遺族や市民約220人が参加。慰霊法要では、戦没者の山田八十二(やそじ)さんと吉村英一さんのひ孫計4人が祭壇に献灯と献花を行った。 遺族を代表し、父春一さんをミャンマーで亡くした市静岡遺族会副会長の中川琉美子さん(83)が「ロシアによるウクライナ侵攻で今も罪のない多くの、かけがえのない命が失われている」とし、「戦争をなくし、平和な日々が続くことを願ってやまない」と述べた
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無力でも反戦の声上げたい ロシア出身者 祖国の弾圧に“抵抗”【戦禍の民 しずおか戦後77年とウクライナ④】
ロシア国内の公園の柵や公衆電話にはいつからか、「緑色のリボン」がくくりつけられるようになっていた。「戦争に反対」。声を大にして主張できないロシアの人々の“小さな抵抗”だ。リボンの色はウクライナの国旗の青と黄色を混ぜると緑色になることに由来しているとされる。 「今では白い紙を持って外に出るだけでも警察に捕まってしまう」。ロシア西部のサンクトペテルブルク出身のロシア語講師伊藤イリーナさん(50)=富士宮市=は祖国の現状に、顔を曇らせた。「こんなにばかげたことはない」 ウクライナ侵攻から間もなくのころ、ロシア各地で行われた抗議デモは、1カ月もすると当局の厳しい弾圧で
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静岡空襲題材の創作オペラ「ある水筒の物語」広める声楽家 田川理穂さん【とうきょうウオッチ/インタビュー】
静岡市で行われた2019年の初演と昨年の再演に日本兵役で出演。7月には都内で作品を紹介するコンサートを自ら開いた。物語を幅広い世代に知ってもらい、平和への祈りを国内外に伝えたいと願う。東京都町田市在住。45歳。 ―「ある水筒の物語」に関わるようになった経緯は。 「企画した『うきうきプロジェクト』の仲戸川知恵子代表に声を掛けてもらったのがきっかけ。静岡県とはそれまでも静岡市、三島市、伊東市の合唱団を指導した縁があった。最初に台本を読んだ時、『二度とこのようなことが起きないために、どうするべきか』という気持ちを抱いた」 ―物語は、空襲の犠牲者と墜落した米軍機搭乗員の合同慰霊祭を続ける医師、
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戦没者慰霊7千個の灯 静岡県護国神社で「みたま祭」
静岡市葵区の県護国神社で13日、戦没者を慰霊する「万灯みたま祭」が始まった。約7千個のちょうちんに明かりが灯り、幻想的な雰囲気を醸し出している。15日まで。 戦争で亡くなった本県出身の英霊を悼む行事で、50年ほど前に始まった。境内を埋めるように並ぶちょうちんは、県遺族会などが献灯した。期間中、天気が良ければ午後7時半と8時半の2回、花火を打ち上げる。 家族4人で訪れた青島亜佐美さん(42)=同区=は、幼少の頃から毎年、みたま祭に足を運んでいる。「子どもの頃、祖父に『戦争で仲の良い友達が亡くなった』と聞き、連れてきてもらった。戦争を忘れないよう、子どもにも伝えていきたい」と話した。
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避難者 奪われた故郷と夢 平和「当たり前ではなかった」【戦禍の民 しずおか戦後77年とウクライナ③】
ウクライナ南部ヘルソン州。農業が盛んで、南北に流れるドニエプル川沿いに緑が広がる。自然豊かな街は2月24日、ロシアの軍事侵攻で一変した。 「ミサイル音が鳴り、戦闘機が隊列を組んで飛ぶ。21世紀に戦争が起きるなんて」。7月下旬にヘルソンから掛川市の知人の元に避難したヴィニチェンコ・ドミトリーさん(32)は重い口を開いた。 侵攻から間もなく、ヘルソンはロシア軍に占領された。市民有志が街を守ろうと武器を手に取ったが、鎮圧されたという。ドミトリーさんが家族とピクニックしたりイルカと一緒に泳いだりした黒海には機雷が漂い、浜辺にロシア軍の戦車が並ぶ。携帯電話の通信は監視されている可能性があり「み
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島田市の戦争被害伝える資料展示 模擬原爆「パンプキン爆弾」の実物大模型も プラザおおるりで16日まで
太平洋戦争の島田市に関する写真や資料を集めた展示会が16日まで、同市のプラザおおるりで開かれている。市の平和祈念事業の一環。 島田市扇町を爆心地とする1945年の島田空襲の被害を伝える写真や、召集令状(赤紙)、鉄帽など貴重な資料を展示した。入り口付近には、島田空襲で投下された模擬原爆「パンプキン爆弾」の実物大模型(直径1・5メートル、長さ3・3メートル)を置いている。 市内の小学生が書いた戦争や平和に関する感想文や市内の遺族会による資料も並ぶ。 展示は午前10時~午後4時。
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沼津の戦争史跡巡る 小学生対象に教室、大空襲体験談聞く
沼津市西熊堂の明治史料館は11日までの3日間、小学生を対象とした市内の戦争の歴史を学ぶ教室を開いた。小学4~6年の児童と保護者が戦争体験者から体験談を聞き、史跡を見学した。 1945年の沼津大空襲について、当時を知る岩下佳子さん(83)が体験談を語った。その後、「砲台公園」(西沢田)に行き、砲台の建設理由や誰が使っていたかなどを学んだ。 戦争史跡は6カ所を見学。御成橋(御幸町)の空襲痕や都立沼津戦時疎開学園(我入道)、拓南神社(足高)などを訪れ、史料館職員から戦時下の生活を聞き、理解を深めた。 原東小6年菊池菱生君(11)は「家の近くにこんなにたくさん史跡があると思わなかった。勉強に
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平和活動 高校生委員に密着 島田工高生が動画制作 市式典で披露
島田市の戦争被害を広く伝え、平和を訴える高校生の姿を多くの人に知ってもらおうと、島田工業高情報電子科放送技術班の生徒7人が取材活動に取り組んでいる。市平和祈念事業実行委員会に加わる高校生委員の活動に密着し、撮影した素材を編集して動画を制作した。15日に市内で開かれる平和祈念式典で披露する。 高校生委員は平和祈念式典などを運営する実行委に若い世代のアイデアを取り入れようと昨年から始まった取り組み。2年目の今年は島田市、川根本町の高校から5人が参加している。委員は活動の一環で、島田市扇町を爆心地とする1945年の島田空襲について理解を深めてもらうためのクイズや、爆心地付近を巡るスタンプラリー
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シベリアで強制労働、戦友失う 無念の抑留「命何より重い」【戦禍の民 しずおか戦後77年とウクライナ②】
1946年の冬、旧ソ連中部に位置するタイシェット近郊の収容所。10人ほどのソ連人の作業監督が死んだ抑留者を埋めるため、地面に穴を掘っていた。酷寒の中、栄養失調でやせこけた亡きがらは凍り付いていた。作業監督はまるで物を割るように遺体をたたき壊し、バラバラにして穴に放り込んだ。30人分はあっただろうか。 旧満州のハルビンで終戦を迎えた佐々木暢也さん(96)=掛川市=は、シベリアでバム鉄道の建設作業を強いられていた。「人間の扱いじゃない」。涙を流しながら埋葬の様子を見ていたが、抑留の身ではどうすることもできなかった。無念さとともに「こんな所では死にたくない」との思いを強くした。 終戦後、ソ
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「ソ連戦車へ突撃」死を覚悟 満州前線で終戦、掛川の佐々木さん【戦禍の民 しずおか戦後77年とウクライナ①】
「佐々木2等兵、おまえは今から出撃だ」。腰に手りゅう弾を5個ぶら下げ、ランドセルのような木箱に火薬をぎっしり詰め込んで背負った。 旧ソ連による旧満州侵攻から1週間たった1945年8月15日午前、陸軍13998部隊に所属していた佐々木暢也さん(96)=掛川市=は、ハルビンの市街地に侵入してくるソ連軍の戦車を体当たりで爆破する任務を命ぜられた。塹壕(ざんごう)の中に身を潜め、待ち伏せした。「いよいよこれで人生も終わり」と死を覚悟した。 熊本県出身。地元の高等小学校を卒業後、満州の奉天(現瀋陽)にある満州電線の養成所を経て同社に就職した。医師の家系だったが、無線通信や機械いじりが好きだっ
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核廃絶今こそ 被爆2世高野さん(富士宮) 父の辞世の句に誓う
広島は6日に原爆投下から77年を迎える。被爆2世の高野佳実さん(67)=富士宮市=は、父が亡くなる直前に残した言葉を大切に胸に刻んでいる。「こんな時代だからこそ私たちが大きな声を出さなければ」。核兵器を巡る世界情勢と国内世論の変化に不安を感じながらも、父に代わり廃絶を訴え続けることを改めて誓う。 身はたとえ 上野の山に 朽ちるとも 平和の護り 今も揺るがず 「えっ? 何?」。1998年7月、高野さんは病床の父真さんの口元に耳を近づけ、何度も聞き返した。肺の病を患っていた真さんはもうろうとする意識の中、まな娘の高野さんに最後の訴えを書き取らせた。「身は
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平和祈る大輪 沼津の空に再び 狩野川花火大会、3年ぶり開催
「第75回沼津夏まつり・狩野川花火大会」が沼津市中心街で3年ぶりに開幕した30日夜。会場の河川敷周辺には多くの人が訪れ、見上げた夜空を大輪が彩った。新型コロナウイルスの影響で中止となっていた、戦災からの復興を願う花火大会の“復活”。市民らは70年余の歴史に思いをはせるとともに、ウクライナ侵攻などの緊迫する国際情勢を踏まえ鎮魂と平和への祈りをささげた。 大会は戦後まもない1948(昭和23)年、荒廃した地元や商店街の復興事業として始まった。毎年7月下旬の2日間にわたり開催され、県内外から約30万人が来場する夏の風物詩となった。 JR沼津駅と花火大会会場をつなぐ大通り
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静岡空襲“知る”「日赤前のクスノキ」次代へ 挿し木苗、静岡・竜南小に植樹 平和学ぶきっかけに
約2000人が犠牲となった1945年6月の静岡空襲で焼けながらも3年後に芽吹いた、静岡市葵区の静岡赤十字病院前にある「日赤前のクスノキ」が、静岡平和資料館をつくる会(田中文雄運営委員長)によって挿し木苗として育てられ、空襲から77年となる20日、静岡市葵区の竜南小に寄贈された。成長したのは挿し木の2%とわずかで、移植先探しも難航した。会員の悲願だった「子どもたちから見える場所」に、ようやく根を下ろすことになった。 「この木は長生きできるけれど、世の中が平和でなければ生きられない。今日から皆さんに託します」 同校で開かれた寄贈式。自宅で育ててきた会員の真田喜代美さん(74)=静岡市清水区
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沖縄慰霊の日前に 県民犠牲者名、読み上げ配信 静岡の語る会
23日の沖縄慰霊の日を前に、沖縄にゆかりある静岡県民でつくる「静岡・沖縄を語る会」は16、17の両日、静岡市葵区の「ギャラリー集」で、沖縄戦などで犠牲になった県民1715人の名前を読み上げた。全国各地の団体がリレー形式で名前の読み上げをつなぐイベントに参加し、動画投稿サイト「ユーチューブ」で生配信した。 イベントは今年初めて企画された「沖縄『平和の礎』名前を読み上げる集い」(同実行委員会主催)。全国の参加団体が、米軍死者を含め計約24万人の犠牲者の名前読み上げを西から東へと受け継いで弔った。 語る会は会員約350人で活動。沖縄の実情を静岡県民に知ってもらうため、月2回の米軍基地反対運動や
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戦争体験AIで継承 浜松の企業開発、「語り部」映像収録
語り部が高齢化している戦争体験の継承に、人工知能(AI)を活用する静岡県内初の試みが浜松市で進んでいる。市遺族会と市戦災遺族会、同市中区のソフトウエア開発「シルバコンパス」が連携。同区の浜松学芸中でこのほど、広島への修学旅行を控えた3年生約50人に、完成したばかりの「AI語り部」が77年前の浜松大空襲の一端を伝えた。 市戦災遺族会の語り部、野田多満子さん(84)=同区=が空襲体験を思い起こしながら話す映像を事前に収録し、その様子を会場のモニターで放映した後、AIが生徒の質問を受けつけた。 空襲の当時、野田さんは7歳だった。浜松城に近い松城町の自宅は既に焼け、身を寄せていた知人宅で夜間の大
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5・19 空襲犠牲者を慰霊 磐田北小/磐田農高
1945年5月19日の磐田市の空襲による犠牲者の慰霊祭が19日、同市見付の磐田北小と同市中泉の磐田農高で行われた。在校生や被爆者、その友人が77年前の同日に亡くなった児童生徒らを弔い、平和への誓いを新たにした。 磐田北小では教員1人と児童28人の計29人が犠牲になった。慰霊祭が同校近くにある子ども厄よけ地蔵と慰霊碑の前で行われ、参列者は読経が流れる中、焼香をした。6年の庄司獅斗君(11)は「平和のありがたみを感じ、これからも平和が続くよう次世代につないでいく」と決意を口にした。 磐田農高では実習中の生徒5人が亡くなった。授業開始前に全校生徒が黙とう。代表生徒らが校内の慰霊碑前でバラの花を
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豊川海軍工廠(愛知)空襲知って 「泣き叫ぶ女子の声今も」 野沢さん、浜松の中学生に戦争伝える
太平洋戦争末期、愛知県豊川市の豊川海軍工廠(こうしょう)に学徒動員され、大空襲に遭った浜松市中区萩丘の菓子店経営野沢幸子さん(93)が4月、地元の西遠女子学園中1年の小杉有香さんら生徒4人と工廠跡を訪れ、遺構を巡って当時の被害を説明した。ロシアの軍事侵攻を受けるウクライナの現状に重ね合わせ、若者が戦争に巻き込まれる悲惨さを伝えた。 野沢さんは当時の気賀高等女学校(現浜松湖北高)在学中に動員され、同級生と寄宿舎に滞在して機銃などの生産に携わった。1945年8月7日午前、米軍機が工廠を標的に3千発以上の爆弾を投下。動員学徒約450人を含む2500人余りが命を落とした。野沢さんも同級生4人を亡く
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23歳戦死 横田川さん(島田出身)遺書発見 戦後76年
太平洋戦争で戦死した島田市出身の横田川政次(まさじ)さん=享年(23)=が陸軍入隊直前の1943年1月に両親へ宛てた遺書が今年9月、市内の横田川さんの実家で見つかった。めいにあたる鈴木八千江さん(75)が壁に掛けられた横田川さんの写真の裏から偶然、発見した。鈴木さんは78年前に戦地に赴いた若者が抱いた覚悟を後世に残してほしいと願い、戦没者をまつる静岡市葵区の県護国神社に収めた。 鈴木さんは4月に県護国神社に展示する戦没者遺影を追加募集していることを知り、いとこの姫野秀一さん(67)に相談した。応募の意思を固め、遺影として使うために写真を取り外したところ、額の裏に挟まっていた遺書を偶然見つけ
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掛川出身のゼロ戦操縦士 終戦の日出撃、墜落死/「8月15日」見上げた空は①
1945年8月15日午前5時21分、千葉県茂原市の茂原海軍航空基地から「252航空隊」の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)十数機が飛び立った。約40分後、房総半島に襲来した連合国軍機を迎え撃ち、掛川市出身の杉山光平さん=当時(20)=のゼロ戦を含め5機が墜落した。ラジオから終戦を告げる玉音放送が流れるわずか6時間前だった。 9人きょうだいの7人目として生まれた光平さん。幼いころから勉強や運動に励み、戦闘機の操縦士を夢見ていた。「何でも器用にこなし、1人でこつこつと努力する兄貴だった」と4歳離れた弟の栄作さん(92)=掛川市=。予科練(海軍飛行予科練習生)を目指しているそぶりは全くなく、「戦闘機乗り」
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「海龍」保存状態良い 下田沖海底に眠る特攻潜水艇 発見の地元海洋調査会社が会見
下田沖で3例目となる旧日本海軍の特攻潜水艇「海龍(かいりゅう)」とみられる船体を発見した海洋調査会社「ウインディーネットワーク」(下田市、杉本憲一社長)は13日、同市内で記者会見した。杉本社長は、同社が2015年に下田沖で発見した船体と比べて「保存状態は良さそう」とし、さらに調査を進め、3次元画像を製作する計画を明らかにした。 同社によると、発見された恵比寿島の南西約800メートル、水深約35メートルの海底は潮の流れが速く、付着物が比較的少なかった。全長約17メートルの船体は、砂に埋まった部分がほとんどなかった。船尾部のスクリューは欠けているとみられ、主翼や尾翼もなかった。司令塔(艦橋)部
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激戦…白亜の塔は語る 御前埼灯台、機銃掃射で「蜂の巣」 重文指定、歴史継承の契機に
明治政府による最初期の洋式灯台として2日付で国の重要文化財(重文)に指定された御前埼灯台(御前崎市)には太平洋戦争末期の1945年夏、米軍機の攻撃を受けて光を失った過去がある。戦後76年。当時を知る人や保存団体の関係者は重文指定を歓迎しつつ、戦争の“被災者”としての灯台を語り継ぐ必要性を訴える。 「蜂の巣のようだった」。幼少期を灯台近くの実家で過ごした松林喜久次さん(84)=吉田町=は、無数の弾痕が刻まれた76年前の灯台の姿を今でも鮮明に覚えている。 灯台は戦局が悪化した45年7月に機銃掃射を受け、国内で最初に導入されたフランス製の回転式1等閃光(せんこう)レンズ
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特攻艇「海龍」か 下田沖、水深35メートルで海洋調査会社撮影 旧日本軍兵器【動画あり】
旧日本海軍の2人乗り特攻潜水艇「海龍(かいりゅう)」とみられる船体が下田市の恵比須島の南西約800メートルの海底で見つかった。地元の海洋調査会社「ウインディーネットワーク」が9日までに明らかにした。太平洋戦争末期、下田には米軍の本土上陸作戦を想定した海龍の基地があり、周辺では1999年と2015年にも海龍が見つかっている。 見つかった船体の長さは約17メートル、幅約1メートルで水深約35メートルに沈んでいた。艇首は下田港とは逆の南東方向を向いていた。下田の基地には海龍計十数艇の配備計画があったとされ、15年に海龍を発見した同社が調査を続けていた。ことし7月上旬に音響ソナーで発見し、水中ドロ
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2度却下、被爆認定やっと 伊東の82歳男性、春に念願の手帳交付「長い闘い報われた」
1945年8月に広島、長崎両市に投下された原子爆弾の被爆者証明として都道府県と両市が交付する被爆者健康手帳。戦後76年を迎える現在も交付を求める人がいる。被爆時の所在や行動の客観的な証明が困難なため、申請が却下される例は多い。静岡県の男性が今年、2度の却下を経て、念願の手帳の交付を受けた。 被爆者認定されたのは伊東市の樺山公一さん(82)。父親の仕事の関係で45年4月に現在の広島市西区に移り住み、被爆した。やけどを負った父親は翌年に病気で死亡し、母親は家財を売りながら子ども3人を養った。 樺山さんは関東地方で暮らし、会社を退職後の2000年に伊東市に移った。手帳の申請は、「広島にいた当時
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戦後復興の象徴「日赤前のクスノキ」次代に 静岡平和資料館をつくる会、挿し木の地植え先模索
約2千人が犠牲となった1945年の静岡空襲で焼けながらも3年後に芽吹き、戦後復興のシンボルとなった「日赤前のクスノキ」(静岡市葵区)の樹勢が弱まってきたとして、静岡平和資料館をつくる会が3年前から枝を挿し木して育てている。2株が樹高40センチを超え、同会は公園などの地植え先を探している。 クスノキは爆撃中心点の近くにあった静岡赤十字病院前にあり、高さ16メートル、樹齢は推定150年以上。静岡新聞の戦後50年特集で「勇気をもらった」という投書をきっかけに保存活動が展開された。2014年には日本樹木医会県支部の調査で根の張りが悪いことが分かり、土壌改良をした。つくる会は枯死の事態も想定し、18
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静岡空襲 日米犠牲者悼む 静岡・賤機山で合同慰霊祭
太平洋戦争末期の1945年6月、静岡空襲で犠牲になった市民約2千人と、墜落死した米軍B29爆撃機の搭乗員23人を追悼する日米合同慰霊祭が19日、静岡市葵区の賤機山山頂で営まれた。遺族や自衛隊、在日米軍関係者ら約50人が参列し、平和への思いを確かめ合った。 参列者は慰霊碑の前で手を合わせたり、米政府から贈られたハナミズキに献水したりして冥福を祈った。米兵の遺品である「黒焦げの水筒」を使って慰霊碑にバーボンウイスキーを注ぐ献酒も行った。 昨年は新型コロナウイルスの影響で中止され、米軍を含めた合同開催は2年ぶり。主催者の同区の医師菅野寛也さん(88)は「多くの人から静岡の慰霊祭はコロナに負けな
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記憶、永遠に(4)進む風化、姿消す遺構 日本平の地下壕
駿河湾や静岡市街地を望む景勝地・日本平。標高307メートルの丘陵の周辺には太平洋戦争末期、上陸する米軍を迎え撃つ「本土決戦」に備えて数多くの地下壕(ごう)が掘られた。それら戦争遺構の一部は今もなお痕跡をとどめるが、多くは年月の経過とともに失われつつある。 「幼いころ、修行僧だった父親から壕の話を聞かされていた。兵隊が掘ったんだと」。山頂近くの一軒家に住む矢田多摩子さん(71)は述懐する。家のすぐそばには壕跡の一つが残る。ただ、風化が進み、一見でそれとは分からない。草木に覆われた側壁の片側部分が露出し、切り立った崖のように見える。 矢田さんによると、2019年9月の大雨で壁面の一部が崩れた
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記憶、永遠に(3)証言者減少曲がり角 体験の記録化
「勉強は二の次。銃剣術の突き方とか、手りゅう弾の投げ方とか、軍事教練ばかり毎日受けていた」 8日、沼津市明治史料館であった181回目の「戦争体験を記録する会」。鉄道員の父親を持ち、戦後間もなく中国山西省の太原から家族で引き揚げた露木政美さん(87)=同市=が、国民学校生活をはじめ太原での生活を振り返った。 会は戦後60年の2005年、同館学芸員の木口亮さん(46)が「体験を記録するラストチャンス」との思いから始めた。以来、月1回のペースで継続。体験者延べ100人ほどが語り、館報の「史料館通信」などで市民に伝えてきた。 「パイロットが見えるぐらいの低空から焼夷(しょうい)弾が落とされる中
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記憶、永遠に(2)語れぬ語り部 高齢化にコロナ禍直撃
戦争体験を語りたいのに語れない-。新型コロナウイルスの感染拡大は語り部活動も直撃。語り部が高齢化する中、関係者はもどかしさを募らせている。 「95歳ですから、あと生きられたって知れている。戦争の苦労、外国人との付き合い方を伝えたいと思う」 全国強制抑留者協会県支部会長の市川柾夫さん=浜松市天竜区=は、終戦後4年にわたったシベリアでの抑留生活を各地で語ってきた。戦後75年を迎え、語り部仲間は鬼籍に入ったり、施設に入所したりと減り「今は1人でやるしかない」。コロナ禍も加わり、今年は活動できていない。 シベリアでは捕虜として鉱石の採掘作業などに従事した。「雨具もなく、坑内を掘り下げていくと、
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記憶、永遠に(1)縮小する遺族会 解散後も「心境は複雑」
「やっぱり、粗末にはできないですよ」 西伊豆町安良里の多爾夜(たにや)神社。太平洋戦争の戦没者らの名前を刻む忠魂碑を見上げ、近くに住む西宮恂夫さん(76)がポツリとつぶやいた。 町遺族会が解散したのは3月末。西宮さんは最後の会長で、同会安良里支部長だった。「自分としては、まだまだ遺族会活動を続けたかった。これからも忠魂碑を磨いて、慰霊を続けたい」 解散の要因は会員の高齢化にある。町内4支部のうち、まず宇久須と仁科の2支部が2019年に解散。残された安良里、田子の2支部で「頑張ってみようか」とも話し合ったが、役員のなり手不足も顕著で、最終的に追随する形となった。 「特別弔慰金の受給資格
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戦時接収「無」から再出発 歴史150年、浜松の製油所
150年近くにわたり、食用油脂の製造販売を続ける製油所が浜松市西区湖東町にある。村松製油所。太平洋戦争中は国に搾油機を接収されるなど、戦中戦後の幾多の苦難を乗り越えてきた。レトロ感あふれる昭和初期のねじ式圧搾機「連続搾油機」を稼働させ、今も日常生活に欠かせない油を提供する。 「戦後はほぼ無の状態。そこから、祖父や父が借金をして機材を買い集め、何とか再開にこぎ着けた」 数年前まで専務だった村松久雄さん(85)が10歳で迎えた終戦時の記憶をたどる。1950年に父太郎さんらが九州で手に入れた搾油機は、70年を経た今も会社を支える。 戦中は国策として鉄が必要で、搾油機などは全て接収された。工場
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静岡県内植物、戦災逃れ”帰郷” 故杉本順一さんコレクション
静岡市を拠点にした在野の植物研究家として全国に知られる杉本順一さん(1901~88年)が第2次世界大戦前に県内で集めた植物標本が北海道大総合博物館で見つかり、ふじのくに地球環境史ミュージアム(静岡市駿河区)に4月、寄贈された。同ミュージアムの担当者は、絶滅危惧種を含む杉本コレクションの“帰郷”を「戦前の県内の植物の状況を知るための貴重な資料」と歓迎する。 静岡に戻ってきたのは、同博物館で昨年5月に発見された、1927~30年の176点。1点ずつ当時の新聞に挟まれ、それぞれに採集地や期日を記したラベルが添付されている。同博物館に収蔵された経緯は不明だが、研
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静岡空襲の犠牲者悼み設置 賤機山観音像 記録写真を発見
太平洋戦争末期の静岡空襲の犠牲者を悼んで静岡市葵区の賤機山頂に置かれた「救世観世音菩薩(ぼさつ)」の出自から1970年の開眼落慶式に至るまでの経緯を記録した写真フィルムがこのほど、同市葵区竜南のやまざき写真館で発見された。同写真館の山崎光司さん(73)は7月、観音像設置に力を尽くした元同市議の故・伊藤福松さんの遺族に写真を寄贈した。 山崎さんは、死去後40年たつ伊藤さんの功績を改めて顕彰しようと、資料保存庫の“発掘”を行った。見つかったのは父の故・義一さんが撮った約130枚。写真からは、伊藤さんが63年ごろに像を島田市の石材店から静岡市内の自宅に運び、数
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「殉國之家」玄関先に 旧由比・蒲原地区 由来は謎、専門家も関心
戦争の記憶の風化がさかんに叫ばれる中、旧由比、蒲原町(現静岡市清水区)の旧宿場町には、「殉國之家」と書かれた札を玄関先に掲げ続ける民家が今も点在している。住民は戦中世代から代替わりが進み、詳しい由来などについて一様に首をひねる。残された公的な記録もなく、戦後73年を経て専門家も再び関心を寄せている。 札の大きさは縦18センチ、横6センチで菊と桜の花を組み合わせた絵柄の下に「殉國之家」という力強い書体の文字が記されている。アルミ製とみられ、裏には何も書かれていない。 「行政か遺族会が配ったのでは」「どこにでもあると思っていた」-。殉國之家の現在の住人は指摘する。だが
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「元特攻」が刻む 悲劇の手記 沼津の木版画家・杉田さん
重爆撃機の元特攻隊員で木版画家杉田登さん(91)=沼津市西間門=が、自身の戦争体験を手記にまとめた。「遠い日のおもいで」と題し、少年飛行兵の厳しい訓練や戦友の死、特攻隊への転属命令などを振り返り、表紙には当時、福岡県内の基地から見た風景を版画で表現した。これまで自身の体験を積極的に語ってこなかったが、戦後73年がたった今でも世界各地で戦争や紛争が続く現状に「愚かな行いを繰り返さないため、悲惨さを後世に伝えなければならない」との思いが強まった。 1943年10月、杉田さんは陸軍少年飛行兵になるため青森県の所沢陸軍整備学校八戸教育隊に入学した。当時の教育は国のため戦争に行くのが当た
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本土決戦用塹壕 本格調査へ 静岡平和資料センター
静岡平和資料センター(静岡市)は今秋、太平洋戦争末期に市内に約20カ所あった「本土決戦用塹壕(ざんごう)」の本格調査に乗り出す。数年前から部分的な調査を行ってきたが、戦争経験者の多くが他界する中、聞き取り調査などを加速させる。 同市駿河区の「平沢観音」から200メートル。竹林をかき分けると、高さ1・5メートル、幅約2メートル、大人3人が座れるほどの空洞が現れる。市内には本土決戦用塹壕が埋められず残っている場所が数カ所ある。 同センターの調査は2011年、同市清水区の男性(84)が、子供のころ遊び場だった有度山周辺の壕について「崩落などで消滅してしまう」と情報を寄せ
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市民の努力、隠れた歴史に光 今後は現地調査も【幻の巨大防空壕⑤】
終戦直前、総延長2千メートルに及ぶ巨大防空壕(ごう)の建設計画が静岡市にあったことを突き止めた「静岡平和資料センター」(同市葵区)のボランティアでつくる研究チーム。自らもチームのメンバーで同センターを運営する市民団体「静岡平和資料館をつくる会」事務局長の土居和江さん(70)は「専門的知識のない一般の市民だけで成果を上げることができたことに意義がある」と振り返った。 今回チームに加わったのは、社会人や主婦、学生ら10~70代の8人。大学などの研究者はいない。 「自分にとって、とても大切な場所」。研究チーム最年少で、静岡大人文社会科学部2年の市山修平さん(19)=駿河
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米軍、建設工事を把握か 「助かる人少ない」【幻の巨大防空壕④】
「1940年の火災時、火は急速に広がり6千戸の家を焼失させた。静岡の燃焼性は既に証明済みだ」―。静岡大空襲の6日前の45年6月14日、グアム島を飛び立つ前のB―29搭乗員には、そう書かれた「ターゲット・インフォメーション・シート(目標情報票)」が配られていた。静岡市の地形や人口、工業化のレベルなどが調べ上げられ、事細かに記されている。 「空から戦争がふってきた 静岡・空襲の記録」(静岡新聞社)の著者新妻博子さん=仙台市=は「静岡の最新情報が記載されていた。爆撃手に目的意識を持たせ、戦意を高めるために使われた」と解説している。 軍事アナリストで県立大特任教授の小川和
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中に入れず右往左往 逃げ惑う中、妹が犠牲に【幻の巨大防空壕③】
「逃げ込もうとしたあの横穴式防空壕(ごう)ではないか」―。矢部正昭さん(81)=静岡市葵区=は今夏、当時の市の巨大防空壕計画を初めて知り、生々しい記憶をよみがえらせた一人だ。静岡大空襲で逃げ惑う際、母の背中に背負われていて頭に焼夷(しょうい)弾の直撃を受け亡くなった葵ちゃん=当時(4)=を妹に持つ。 「あの日」、最初に避難した自宅裏の半地下型の防空壕近くに照明弾が落ち、母に連れられ賤機山の西側山麓に向かった。軍人として内地勤務だった父が家を空けている最中の出来事だった。 横穴式防空壕の入り口近くに着くと、既に大勢の人が群れていた。中には入れず、右往左往するうち、右
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「防空法」で建設後回し 避難さえ許されず【幻の巨大防空壕②】
「静岡大空襲で使ったとは聞いたことがない」。静岡市葵区の竹下唯司さん(68)は賤機山に今も残る太平洋戦争中の防空壕(ごう)跡を指さしながら話した。当時の静岡市が計画した19カ所(総延長2千メートル)の一つの可能性が高い。 かくれんぼをして遊んだことがある竹下さんによると、子供がかがんでやっと入れる高さ約1メートルの穴が5~6メートル奥まで続いている。場所は、建設予定地の地図と一致する。大空襲時に多くが工事中だった防空壕は、終戦後にほとんどがふさがれたという。 静岡市の巨大横穴式防空壕計画は、なぜ静岡大空襲に間に合わなかったのか―。 「当時、防空壕構築
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未曽有の事業 8割未完成 市民、知らされぬまま【幻の巨大防空壕①】
終戦間際の静岡市にあった巨大防空壕(ごう)建設計画を裏付ける公文書は、今年6月、「静岡平和資料センター」(同市葵区)のボランティアでつくる研究チームが市公文書館で発見した。見つかったのは「昭和20年(1945年)度防空設備費起債書類」と書かれたつづりにとじられた、文書や地図など約60点。 「民防空ノ必勝不敗態勢ノ確立ヲ期セム」などと事業目的が記された文書のほか、総事業費171万5千円のうち国庫補助により3分の2を、残りの大部分を国や銀行を主な引受先として想定した市債発行でそれぞれ賄う事業計画もあった。建設予定の横穴式防空壕を赤字で示した地図も発見された。 未明に静
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静岡に巨大防空壕計画 大戦末期、総延長2000メートル
太平洋戦争末期、当時の静岡市が市中心部の賤機山や八幡山、谷津山など計19カ所に、総延長2千メートルに上る大規模な横穴式防空壕(ごう)の建設を計画していたことが10日までに分かった。1カ所当たりの穴の長さは短いもので50メートル、長いもので232・45メートルだった。 「昭和20年(1945年)静岡市会議事速記録」などによると、当時の同市にとって未曽有の大事業だったが、そもそもの計画策定の遅れや資材不足が響き、1945年6月20日未明の「静岡大空襲」(死者1700人以上)当日に完成していたのは409メートルのみ。約8割が未完成だった。 一方、空襲を経験した複数の高齢
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電波兵器を研究 島田・牛尾実験所跡 継承へ機運
太平洋戦争の劣勢を挽回するため旧海軍が強力電波兵器を極秘研究した第二海軍技術廠(しょう)の牛尾実験所跡(島田市)。戦後も残った基礎コンクリートなどは1月、国による大井川の河道拡幅工事で取り壊された。ただ、終戦から70年の今夏、市民の間に語り継ごうという動きが広がっている。 「保存の声をもっと上げるべきだった」。そう悔しさをあらわにする金谷タクシーの塚本昭社長(50)は牛尾実験所跡や同市に投下された模擬原爆「パンプキン」の爆心地、特攻隊の訓練が行われた大井海軍航空隊跡(牧之原市)などをタクシーで巡る戦争遺跡ツアーを7月から始めた。運転手を案内役として養成し、車内で流す紹介ビデオも
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旧海軍が島田で開発「強力電波兵器」 実験所跡、初の発掘調査
太平洋戦争終戦直前まで劣勢を挽回しようと旧海軍が島田市内で開発していた秘密兵器「強力電波兵器」。市内の牛尾山に唯一残る実験所跡が大井川の河川改修で削られることになり、初の発掘調査が行われる見通しになった。ただ、記録だけの保存にとどまる可能性が高く、地元からは実物の保存を求める声も上がっている。 実験所は「第二海軍技術廠牛尾実験所」。現在の特種東海製紙敷地内にあった「島田実験所」の疎開先として終戦間際に建設が進んだ。当時の島田市には第一線級の科学者が出入りし、大きなパラボラアンテナで強力な電波を照射して、敵飛行機を故障させる実験をしたり、動物への影響を調べたりしていた。 &nbs