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豊川海軍工廠(愛知)空襲知って 「泣き叫ぶ女子の声今も」 野沢さん、浜松の中学生に戦争伝える

 太平洋戦争末期、愛知県豊川市の豊川海軍工廠(こうしょう)に学徒動員され、大空襲に遭った浜松市中区萩丘の菓子店経営野沢幸子さん(93)が4月、地元の西遠女子学園中1年の小杉有香さんら生徒4人と工廠跡を訪れ、遺構を巡って当時の被害を説明した。ロシアの軍事侵攻を受けるウクライナの現状に重ね合わせ、若者が戦争に巻き込まれる悲惨さを伝えた。

野沢さん(右)から空襲の様子や当時の生活を学ぶ中学生=愛知県豊川市の豊川海軍工廠平和公園
野沢さん(右)から空襲の様子や当時の生活を学ぶ中学生=愛知県豊川市の豊川海軍工廠平和公園
豊川海軍工廠
豊川海軍工廠
野沢さん(右)から空襲の様子や当時の生活を学ぶ中学生=愛知県豊川市の豊川海軍工廠平和公園
豊川海軍工廠

 野沢さんは当時の気賀高等女学校(現浜松湖北高)在学中に動員され、同級生と寄宿舎に滞在して機銃などの生産に携わった。1945年8月7日午前、米軍機が工廠を標的に3千発以上の爆弾を投下。動員学徒約450人を含む2500人余りが命を落とした。野沢さんも同級生4人を亡くし、戦後は追悼活動を続けてきた。
 小杉さんは幼い頃、野沢さんの店でお菓子を手に戦争体験を聞いたことがあった。進学した同学園で殉難学徒慰霊式に臨むのにあたり、改めて関心を抱いたという。同級生の大野愛心さん、石塚めい美さん、鈴木杏さんを誘う一方で、野沢さんに現地の案内を依頼したところ、二つ返事で応じてくれた。
 工廠跡は豊川市が4年前に平和公園として整備し、戦後に残った建物を保存している。野沢さんは爆撃から必死に逃れ、無我夢中で走り回った状況を思い起こし「皆さんと同じ年代の人がたくさん亡くなった。大けがをして『助けて、助けて』って泣き叫ぶ女の子の声が今も耳に残っている」と当時の様子を説明した。
 野沢さんは「ここは兵器を造る加害の場でもあった」と複雑な胸の内を明かしつつ、小杉さんたちに呼びかけた。「戦時中は自由に物が言えず、自分で考える力が育たなかったと思う。今のロシアも同じような事情があるのでは。皆さんは自分の意見を言う力を大切にしてほしい」

豊川海軍工廠 旧日本海軍の軍事施設で、弾薬兵器工場を中心に90棟以上が立ち並び「東洋一の軍需工場」と称された。太平洋戦争中は学生を含め約5万人が従事。女子生徒の動員もあり、県内からは計6校から派遣された。1945年8月7日の空襲では死者が2500人以上、重軽傷者は1万数千人に上り、工場施設の空襲被害としては国内最大だった。

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