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静岡空襲の犠牲者悼み設置 賤機山観音像 記録写真を発見

 太平洋戦争末期の静岡空襲の犠牲者を悼んで静岡市葵区の賤機山頂に置かれた「救世観世音菩薩(ぼさつ)」の出自から1970年の開眼落慶式に至るまでの経緯を記録した写真フィルムがこのほど、同市葵区竜南のやまざき写真館で発見された。同写真館の山崎光司さん(73)は7月、観音像設置に力を尽くした元同市議の故・伊藤福松さんの遺族に写真を寄贈した。

1963年ごろとみられる島田市の石材店での写真。後に賤機山に運ばれる観音像に手を合わせる伊藤福松さん(左から4人目)
1963年ごろとみられる島田市の石材店での写真。後に賤機山に運ばれる観音像に手を合わせる伊藤福松さん(左から4人目)
発見した写真を確認する山崎光司さん=6日、静岡市葵区のやまざき写真館
発見した写真を確認する山崎光司さん=6日、静岡市葵区のやまざき写真館
1963年ごろとみられる島田市の石材店での写真。後に賤機山に運ばれる観音像に手を合わせる伊藤福松さん(左から4人目)
発見した写真を確認する山崎光司さん=6日、静岡市葵区のやまざき写真館

  山崎さんは、死去後40年たつ伊藤さんの功績を改めて顕彰しようと、資料保存庫の“発掘”を行った。見つかったのは父の故・義一さんが撮った約130枚。写真からは、伊藤さんが63年ごろに像を島田市の石材店から静岡市内の自宅に運び、数年間安置していた経過が分かる。70年6月の落慶式の様子、同年冬に伊藤さんが参拝する姿も記録されている。
  伊藤さんは、51年に同市田町に開園した田町幼稚園の初代園長。義一さんとは開園式の撮影を通じて知り合い、終戦直後から進めていた観音像設置計画の記録係を依頼したという。
  山崎さんは7月、伊藤さんの義理の孫で新間杉の子幼稚園(同市)の前理事長井上憲一さん(70)に写真を手渡した。
  井上さんは、30歳ごろまで近隣で過ごした伊藤さんを「『像の設置でみんなの心が救われればいい』といつも言っていた」と述懐する。写真を見て、像を大八車に乗せて自宅から賤機山へ運び出す姿を思い出したという。
  賤機山では毎年6月、伊藤さんの遺志を継いだ日米関係者が合同慰霊祭を開いている。山崎さんは写真を見て「多額の私財を投じるなど、観音像建立に貢献した伊藤さんの存在を今後も忘れてはならない」と思いを新たにした。
  今回見つかった写真は、やまざき写真館で閲覧できる。

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