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派閥政治の功罪 自民党元幹事長・古賀誠氏に聞く【さまよう民主主義】

 岸田文雄首相が流れをつくった自民党の派閥解消が、党大会で正式決定された。日本の戦後民主主義は、「政治とカネ」問題が起きるたびに揺らいできたが、多くは派閥が舞台になった。岸田首相ら5人の宰相を生んだ宏池会で会長を務め、派閥政治の光と影、表と裏を知り尽くした古賀誠元幹事長が功罪を語った。

「政治家はこの国をどうしていくか政策論が必要。それには言葉が一番大事です。その言葉には責任と覚悟がないと駄目。それがないと無用な権力闘争を引き起こします」と話す元自民党幹事長の古賀誠氏
「政治家はこの国をどうしていくか政策論が必要。それには言葉が一番大事です。その言葉には責任と覚悟がないと駄目。それがないと無用な権力闘争を引き起こします」と話す元自民党幹事長の古賀誠氏
2023年5月の自民党岸田派パーティーで乾杯する岸田文雄首相ら(上)、記者会見する大平正芳首相(右下)、あいさつをする古賀誠自民党幹事長(左下)のコラージュ(肩書は当時)
2023年5月の自民党岸田派パーティーで乾杯する岸田文雄首相ら(上)、記者会見する大平正芳首相(右下)、あいさつをする古賀誠自民党幹事長(左下)のコラージュ(肩書は当時)
自民党派閥の系譜
自民党派閥の系譜
「政治家はこの国をどうしていくか政策論が必要。それには言葉が一番大事です。その言葉には責任と覚悟がないと駄目。それがないと無用な権力闘争を引き起こします」と話す元自民党幹事長の古賀誠氏
2023年5月の自民党岸田派パーティーで乾杯する岸田文雄首相ら(上)、記者会見する大平正芳首相(右下)、あいさつをする古賀誠自民党幹事長(左下)のコラージュ(肩書は当時)
自民党派閥の系譜


 日本は戦後民主主義の時代になって80年になろうとしている。しかし、その節目を前に自民党でまたしても、派閥パーティー裏金事件という「政治とカネ」を巡る問題が起きた。事件を受けて岸田文雄首相は、出身派閥の宏池会(岸田派)解散を表明した。僕は一つの決断であり、間違っていなかったと思っている。
 だが、「派閥の全てが悪だ」と言って解散するだけなら、一時的なごまかしに過ぎない。集団を形作るのは人間の本能であり、そういう意味で派閥はなくならない。首相も分かっているはずだ。だから首相は、派閥のどこが悪く、変えるには何が必要なのかをきちんとした言葉で説明し、国民と丁寧で息の長い議論をしていくべきだ。
 単に派閥を解散するだけでは、国民の政治不信は拭えない。人間の集団本能を踏まえて派閥の功罪を考えるなら、派閥を全否定するよりも、良い面を生かして善用するしかないのではないか。
 ただ、最低限守らねばならない規範は必要。首相は「派閥から金と人事の機能を切り離す」と言った。このことを含め、政治をあるべき姿に導いていくべきだ。

 骨の髄まで
 僕は大平内閣での1979年の衆院選に旧福岡3区から無所属で立候補したが、宏池会という派閥があったから国政の場に出ることができた。
 僕は、先の大戦で父が戦死し、苦労を一身に背負った母の後ろ姿を見て育った。戦争をする国を二度とつくってはならないと政治家を志した僕に白羽の矢を立ててくれたのが、宏池会を率いる大平正芳首相だった。自民党の公認は取れなかったが、大平先生は「宏池会でおまえを抱えてやる。母子家庭で苦しいこともいっぱい経験しただろう。政治はそれが大事だ。そういう人間もいないといい政治はできない」と激励してくれた。
 身震いする経験だった。選挙は次点だったが、翌80年の選挙で初当選することができた。
 派閥の功罪の「功」として言われるのは、権力の抑制機能だが、一番大事なのは人材を見つけ出し、育てていくことだ。大平先生はそれを骨の髄まで教えてくれた。
 もちろん、派閥の「罪」の部分はある。政治とカネの問題だ。なぜこういう問題が引き起こされるのか歴史をひもとくと、戦前の二大政党時代にさかのぼる。当時の政友会には三井が、民政党には三菱が金を出していたように、財界と深くつながっていた。だが、戦後は財閥解体でこうした金が出なくなったため、派閥が金を集めてきた。
 そして金の問題が起きると、自民党はきれい事を言っては派閥の金を締め付けてきた。でも、それでは派閥が成り立たないから、いろいろな形で金を集め、また今回のような事件が起きた。

 大きな傷
 こうした過去をわれわれは大いに反省せねばならない。政治には金がかかるとはいえ、限度と規範が必要だ。政治資金を巡るルールをきちんとつくり、民主主義のコストをどう負担していくのか。首相は責任と覚悟を持って、この問題に決着をつける必要がある。
 政治の在り方に関し、今でも良かったのかと思うことがある。僕は森喜朗政権の時に自民党幹事長を務めたが、森首相への世論の批判が強まり、党内は「森では駄目だ」の大合唱になった。
 そこで僕は森首相に「もう収まりません。前倒しで引退をご決意ください」と迫った。森首相とは当然のことながら激しい議論になったが、結局は自ら退陣を決断され、小泉純一郎政権が誕生することになった。
 この表紙替えで「小泉ブーム」となり、以来安倍晋三首相にまで至る清和政策研究会(安倍派)の時代になった。結果として、自民党は今回の事件で大きな傷を負ってしまった。苦より楽を求めた因果ではなかったか。
 やはり時の首相は、何があろうとも任期を全うし、選挙で負ければやむを得ないと覚悟を決めて、国民に堂々と信を問う政治の王道を歩むべきだったのではないか。いま政治の劣化が言われるからこそ、政治は次の世代に向けて、政治のあるべき姿をきちんと示していく必要がある。政治家は、政治家にとって最も大切な責任と覚悟を放棄してはならない。

統制強化があるべき姿か  初めて挑む衆院選に無所属での出馬を余儀なくされた若き古賀誠氏に、大平正芳元首相が「宏池会でおまえを抱えてやる」と伝えたエピソードは、自民党が「派閥の連合体」であることを象徴的に物語っている。
 結党間もない頃なら「八個師団」と呼ばれた8派閥、大平の時代なら「五大派閥」が覇を競い合っていたのが自民党だ。権力は分散的で、政策も幅広く、議員は地元に深く根ざしていた。
 執行部が強い権限を持ち、政策も候補者も決める「近代的」な政党とは構造が根本的に違う。
 時には国民不在の政争を繰り広げ、金権腐敗の温床にもなった自民党の派閥は、その「前近代的」な体質が嫌われ、政治の舞台から姿を消す。
 だが、中央が統制を利かすだけが政党の在り方ではない。分権型政党は強権を避け、地域の声も拾うための戦後日本の知恵だったかもしれない。
 日本の政治や政党はどうあるべきなのか。派閥解散を受け、自民党がどう変わるのかで見えてくるのではないか。

 自民党の派閥 党内で政治理念や信条を共にする議員の集団。領袖(りょうしゅう)を「総理・総裁」にすべく離合集散を重ね、全盛期の「五大派閥」時代を経て、岸田政権時には安倍、麻生、茂木、岸田、二階、森山の6派閥になった。派閥には権力抑制の機能があると評されるが、党内抗争や金権政治の原因になったとして、何度も解消論が唱えられた。宏池会(岸田派)は1957年に池田勇人元首相が創設。清和政策研究会(安倍派)は62年に福田赳夫元首相が結成した「党風刷新連盟」が起源。

 こが・まこと 1940年福岡県出身。日本大卒。衆院10回当選。運輸相や自民党幹事長を歴任。宏池会会長、日本遺族会の会長も務めた。

 <随時掲載します>

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