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⚽清水FC55年 エスパルス誕生の背景 歴史的チームの姿に迫る

 サッカーJリーグ2部(J2)清水エスパルスは16日、ホーム試合となるリーグ第26節ジェフユナイテッド千葉戦を東京・国立競技場で開催する。クラブはエスパルス誕生の背景となったチーム「清水FC」の誕生から55年を記念した事業に今回の試合を位置付け、トークイベントや特製グッズの配布などを行う。

清水エスパルスが作成した記念のロゴ
清水エスパルスが作成した記念のロゴ

 清水市(現・静岡市清水区)の少年選抜チームとして無類の強さを誇り、サッカー王国・静岡を印象付けた清水FC。指導者として携わった綾部美知枝さん(74)、清水FC出身でエスパルスを代表する選手の一人として活躍した大榎克己氏(58)の2人のインタビューから歴史的チームの姿に迫る。
清水FC 清水市(現・静岡市清水区)の少年選抜チーム。清水市に小学生リーグが発足する中で編成された。当初は「オール清水」と呼ばれた。1977年に始まった全日本少年サッカー大会(現・全日本U―12サッカー選手権大会)では、85~87年度の3連覇を含めて8度の優勝を飾った。反町康治(日本サッカー協会技術委員長)、野々村芳和(Jリーグチェアマン)、大岩剛(U―22日本代表監督)、斉藤俊秀(日本代表コーチ)ら現在の日本サッカー界の要職に就く人たちをはじめ、数多くの選手・指導者を輩出する。
〝清水の三羽がらす〟などを育てた清水FCの指導者
綾部美知枝氏
photo03 綾部美知枝さん
 女性のサッカー指導者の草分け的存在として知られ、昨年には日本サッカー殿堂入りを果たした綾部美知枝さん(74)=静岡市清水区=。清水を全国屈指のサッカーどころに育てた堀田哲爾氏(故人)からの指名で1971年から清水FCの指導に当たり、77年には監督としてチームを全日本少年サッカー大会の初代王者に導いた。清水FCに携わった23年間で、〝清水の三羽がらす〟と呼ばれた長谷川健太、大榎克己、堀池巧の3氏をはじめ、数多くのJリーガーを育てた。

 指導を始めた当時を振り返って
 「藤枝のまちがサッカーが盛んで、サッカー王国・静岡は藤枝を指していた。藤枝が中学生から指導するなら、清水は小学生から手がければ藤枝に追い付き、追い越せるのではないか。藤枝に勝ちたい、日本一になりたい、という堀田先生(堀田氏)の思いからスタートした」
 サッカーを子どもたちの教えることの価値
 「サッカーはチームプレーが必要で、1人ではできない競技。子どもたちにはとても良い教材になる。困った時も、うれしい時も仲間と共有する。サッカーを通じて子どもたちに学びを得てもらいたい。サッカーで学んだ強い子は、やがて強い大人になって、強いまちをつくる。そんな一人になってもらいたいという願いで、指導に取り組んだ」
 サッカーどころ清水に1991年、エスパルスが生まれた
 「清水FCをつくった堀田先生は、サッカーで清水のまちを全国区にしたいとか、プロクラブを作りたいとか、ワールドカップ(W杯)を呼ぶとか、そんな未来を当初から見ていた。だから私たち清水FCの指導者は、日の丸を背負う選手を1人、指導者を1人育成しよう、と言われていた」
 清水FCで育った子どもたちがJリーガーになった
 「プロができて、サッカーが全国区になった。子どもたちの晴れ姿を本当にうれしく思った。子どもたちを支えてきた両親や地域の人たちが喜ぶ姿を見られたのもうれしかった。Jリーグが開幕するまではサッカーも芸術も全部東京に行かなければ見られなかった。それが清水で見られた。こんなに素晴らしいことはないな、と清水を誇らしく感じた」
 清水エスパルスに望むこと
 「全国のサッカー少年の憧れだったのが清水FC。今はエスパルスが清水の象徴。だからこそ負けてはいけない。J2にいることは残念だが、現状の見直しやJ2だからこそ皆で応援しようという(機運の)チャンスだと思っている。私はエスパルスのオレンジは太陽が昇る時の色だと思う。だからエスパルスは清水にとっての太陽。そんな存在であることを選手一人一人にも感じてもらいたい」  〝清水の三羽がらす〟のひとり 清水FC、エスパルスで活躍
大榎克己氏
photo03 大榎克己さん
 清水エスパルスのプロ契約第1号選手で、クラブの創成期を支えた大榎克己氏(58)。清水市(現・静岡市清水区)で生まれ育った大榎氏は地元の少年団でサッカーを始めると、やがて清水FCの一員となった。〝清水の三羽がらす〟と呼ばれた長谷川健太、堀池巧の両氏とも清水FC時代からともに戦い、清水のサッカーの強さを全国に示した。
 清水FCの存在
 「サッカーをする小学生にとっては清水FCに入るのが夢だった。清水FCには3匹のライオンが描かれたエンブレムがある。そのエンブレムの入ったユニホームを着ることに憧れた」
 清水FCで教わったこと
 「サッカーはもとより、人間教育の場でもあった。指導者が皆、学校の教員であったこともあるが、素晴らしい人間が素晴らしいサッカーをするという考え方。出されたものを残さず食べるとか、思いやりの気持ちを持つとか、使った場所はきれいにして帰るとか、人として当たり前のことをたたき込まれた」
 小学生年代で全国に名をとどろかせた「清水FC」の名称でJリーグへの参加を目指し、発足時の10チームの一つに選ばれた
 「清水がサッカーのまちだということ、Jリーグが地域に根付いたチームを重んじたことを考えると、当然だったのかなと思っている。私は当時、ヤマハ発動機に所属していたが、自分たちが清水に戻らないとチームが成立しないだろうという使命感、責任感があった。人生で一番悩んだ時だったかなと思う」
 今後の清水に願うこと
 「数多くの選手を輩出した清水の何が優れていたかというと、組織づくり。日本で初のサッカー少年団を創部し、清水の地をサッカーどころに育て上げた堀田哲爾氏(故人)が中心となって指導者を養成し、指導を受けた先生たちが各学校で子どもたちに教えた。他にも各小学校にナイター設備がありサッカーがいつでもできる環境や、子どもだけでなく市民皆がサッカーに関わる意識があったことで、黄金時代が築けたと思う。皆がサッカーに興味を持って、勝つことに喜びを感じた。それが清水だった。Jリーグ発足後は全国でサッカーの普及が進み、他の地域も台頭してきた。清水が今後どのような色を出していくか。新しいことにチャレンジしないと勝っていくことはできないと思う」

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