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【序章】記憶㊤ 19歳の母 亡き友の頑張り 支えに【青春を生きて 歩生が夢見た卒業】

 その女性はこの数年、波乱に満ちた人生を送ってきた。2021年6月に磐田市の高校をやめ、通信制の高校に入り直した。在学中に妊娠。おなかに赤ちゃんを宿しながら勉強を続けて卒業、結婚し、23年7月、長女を産んだ。19歳。浜松市で家事、育児に追われる日々を送っている。

寺田歩生さんの写真を見つめ、一緒に過ごした時間を懐かしむ杉田沙穂さん=2023年12月、磐田市(浜松総局・山川侑哉)
寺田歩生さんの写真を見つめ、一緒に過ごした時間を懐かしむ杉田沙穂さん=2023年12月、磐田市(浜松総局・山川侑哉)
家族ができて、母となった杉田さん(右)。亡き友の思い出を胸に生きている=2023年12月、浜松市内(写真部・小糸恵介)
家族ができて、母となった杉田さん(右)。亡き友の思い出を胸に生きている=2023年12月、浜松市内(写真部・小糸恵介)
寺田歩生さんの写真を見つめ、一緒に過ごした時間を懐かしむ杉田沙穂さん=2023年12月、磐田市(浜松総局・山川侑哉)
家族ができて、母となった杉田さん(右)。亡き友の思い出を胸に生きている=2023年12月、浜松市内(写真部・小糸恵介)

 「人生逃げてばっかりだった。ちゃんと向き合わないといけないって教えてくれたのは、歩生[あゆみ]だった」。生後5カ月のまな娘を抱きながら、同市中央区(旧中区)の杉田沙穂さんは少しずつ語り始めた。道を踏み外さず今があるのは、亡き友、寺田歩生さんのおかげだという。
 20年4月、県立磐田北高に入学した。同じクラスの歩生さんとすぐに仲良くなった。好きなアイドルや「恋バナ(恋の話)」で盛り上がり、教室で机を並べて弁当を食べた。歩生さんは右足を切断していた。「骨のがんなんだよね」。周囲には詳しく伝えていない事実を明かしてくれた。病気で留年していて、2度目の1年生ということも。
 杉田さんは明るい性格でクラスを盛り上げたが、次第に休みがちに。「さみしいじゃん。来てよ」。痩せ細っていく歩生さんからそんな言葉をかけられたこともあったが、杉田さんは2年生の夏休み前、学校を去った。
 通信制の高校に入り直したのは「自分が情けなくなった」から。歩生はあんなに頑張っているのに…。通信制高校1年目の21年10月。ガソリンスタンドでのアルバイト中だった。磐田北高の先生から突然電話があり、歩生さんの訃報を知らされた。目の前が真っ暗になり、とめどなく涙があふれた。
 妊娠が分かった時、親に伝えるか悩んだ。以前の自分だったら逃げていたかもしれない。向き合わせてくれたのは亡き友だった。2人でよく行った磐田北高の保健室。恩師の養護教諭の顔が浮かび、連絡を取ると親身に相談に乗ってくれた。「2人のおかげで産みたい思いを正直に話せた」。身重の体で机に向かい、同級生と同じ23年3月に卒業した。
 同年7月、長女望華[もか]ちゃんが生まれた。母親になって気付いたことがある。命の重さ、歩生さんの両親のすごさ。「学校に通わせるのは心配もあったと思うけど、歩生がやりたいことを応援してすごいなって」。夫の大翔さん(21)と慌ただしい日々を送る。「なんか、歩生に会いたくなっちゃう」。大きな瞳がかすかに潤んだ。
      ◇
 磐田北高2年の時、志半ばで18歳で他界した磐田市の寺田歩生さんは骨のがん「骨肉腫」だった。右足の切断や留年という苦難に直面してなお、卒業を夢見て通い続けた。その生きざまは、家族や同級生、教諭らに今も大きな影響を与えている。歩生さんがきっかけとなり、県内で同じように長期療養で学校に通えない生徒に希望も生まれている。自身の余命を知りながら、どのような思いを胸に高校生としての日々を生きたのか―。歩生さんや支えた人々の物語をたどり、青春と命の意味を考える。
 (社会部・武田愛一郎が担当します)

 メモ
 国立がん研究センター(東京)によると、骨のがん「骨肉腫」は10代の思春期に当たる中学、高校生の年代に発生しやすい。国内で罹患(りかん)する人は年間約200人程度(100万人に2、3人)で非常にまれな部類に入る。初診時に転移がなく四肢に発生した症例では、5年生存率は70%程度。痛みや腫れが主な症状だが、症例が少なくスポーツ傷害や成長痛と間違われることも少なくない。 <続きを読む>序章・記憶㊥ 高校恩師 留年選択の決意に仰天【青春を生きて 歩生が夢見た卒業】

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