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テーマ : 菊川市

今川氏真ってどんな人? 戦国大名・今川家の歴史に幕 後に出家して文化人に 晩年は家康と駿府で交流

酒井抱一《今川氏真》(「集外三十六歌仙」より)江戸時代後期 姫路市立美術館蔵
酒井抱一《今川氏真》(「集外三十六歌仙」より)江戸時代後期 姫路市立美術館蔵

今川氏真の生涯
 天文7年(1538年)生まれ。父は「海道一の弓取り」と呼ばれ駿河・遠江・三河を治めた戦国大名の今川義元、母は武田信玄の姉。駿河と隣接する甲斐、相模の和平協定「甲相駿三国同盟」の一環として、北条氏康の娘・早川殿を正室に迎えた。

 永禄3年(1560年)に織田信長との「桶狭間の戦い」で父・義元が討死すると、今川配下にあった三河の松平元康(徳川家康)が離反。武田信玄の嫡男・義信が廃嫡され、正室だった氏真の妹・嶺寒院(嶺松院とも)が駿府に送還されたり、駿河湾の塩を送るのをやめる「塩止め」を行ったりして、甲斐の武田信玄との関係も悪化。こうした事態を受けて氏真は、信玄の敵である越後の上杉謙信と同盟を結んだ。外交に加え、遠江で起こった大規模な反乱を平定するなど内政にも取り組み、父・義元の死後も駿河・遠江の領国を10年近く守った。

 しかし永禄11年(1568年)、家康が遠江に、信玄が駿河に攻め込んで来たため、氏真は重臣・朝比奈泰朝の懸川城(掛川城)に逃れた。この時、正室・早川殿の乗り物を用意できず、徒歩で避難させたと伝わる。懸川城の籠城戦の末、家康に城を明け渡した後は、妻の早川殿とともに妻の実家・北条のもとへ移り、戦国大名・今川の歴史は幕を閉じた。
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 領国を失った氏真は、北条や家康の保護を受けた。家康から一時、牧野城(諏訪原城、島田市)を任されるが、すぐに解任された。出家して「宗誾(そうぎん)」と名乗り、妻の早川殿と共に、京都に住んで歌道や蹴鞠(けまり)を楽しんだ。父の仇(かたき)・織田信長に蹴鞠を披露したという説もある。 晩年には大御所となった家康と駿府で交流を深め、慶長19年(1614年)に77歳で死去した。
 晩年の歌として、「なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身のとがにして」「悔しとも うら山し共思はねど 我世にかはる 世の姿かな」などが知られている。 文化に優れた氏真の子孫は、江戸幕府で儀礼作法を指導する「高家(こうけ)」となり、高い文化を誇った今川氏の名声や伝承は現代にも生きている。
 (静岡市歴史博物館への取材と静岡県史を元に作成)

氏真を霧で守った掛川城 「雲霧城」の異名も
  photo01 霧に包まれた掛川城(掛川城公園管理事務所提供)  

 掛川市中心部にそびえる掛川城(掛川市掛川)。再建された天守閣そばに残る「霧吹き井戸」には戦国時代、今川氏真が籠城した際に井戸から上った霧が城を包み、徳川家康の攻撃から城を守ったという伝説が残る。掛川城が別名「雲霧城(くもきりじょう)」とされるゆえんだ。忍者ガイド小沢孝司さんによると、現在でも冬の雨天の翌日に晴れるなど、一定の条件がそろうと霧が城を包む日があるという。

 天正18年(1590年)頃、戦国武将の山内一豊が城主となり、天守を築いた。江戸時代の安政の大地震で大半が損壊したが、平成6年(1994年)に市民の寄付により「東海の名城」とされた美しさそのままに日本初の本格木造天守閣として再建された。敵に石をぶつけるための床の穴「石落とし」、敵を不意打ちするために武者が隠れる秘密部屋「武者隠し」。城内の随所に防御の仕掛けがある。




氏真を現在も顕彰 用水創設たたえるほこら「今川様」 photo01 ほこら右側の木札には氏真の法名「仙岩院殿豊山栄公大居士位」が記されている=菊川市棚草  

 かつて今川氏の領国だった菊川市棚草の雲林寺跡地には、「今川様」と呼ばれる今川氏真をまつるほこらが残っている。
小笠町誌や静岡県史によると、地域に伝わる永禄9年(1566年)の「棚草古文書」で、氏真が家臣の朝比奈孫十郎を通じ、水源である宇津梨(うつなし)を棚草村の所有と認めた。以降、地元住民は「棚草用水」の創始者として氏真を顕彰し続けている。
 同用水は現在も米作りに活用されていて、棚草自治会は毎年3月、雲林寺の本寺「善勝寺」の住職による読経や紅白まんじゅう配布などを行う「今川様のお祭り」を実施している。


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