テーマ : 美術・絵画・写真

「ベルナール・ビュフェ 偉才の行方」 ベルナール・ビュフェ美術館(長泉) ㊤時代と共に

 「ピカソに比肩しうる画家」とまで評されたフランス人画家ベルナール・ビュフェ(1928~99年)は、大衆的な人気とは逆に、パリ美術界では2016年まで回顧展が開かれないなど、長く排除の対象とされてきた。ベルナール・ビュフェ美術館(長泉町)で開催中の開館50周年記念展「ベルナール・ビュフェ 偉才の行方」の出品作を上下2回の特集で紹介し、ビュフェへの評価の変動と時代背景、再評価の機運が高まる今を読み解く。「上」のテーマは「時代と共にあったビュフェ」。
戦後パリ 共感呼んだ喪失感 photo03 フランスの首都パリは1940年6月、ドイツ軍に占領された。パリを行進するドイツ軍部隊
 ビュフェが美術界に激賞とともに受け入れられた1940年代後半、フランスの首都パリは荒廃のただ中にあった。39年のナチスドイツによるポーランド侵攻に端を発し、人類史上最大の戦争となった第2次世界大戦。大戦初期の40年5月、フランスはドイツ軍の進攻開始からわずか1カ月余りでパリを無血開城した。市内では軍による市民弾圧や対ドイツ抵抗運動、対ドイツ協力を巡るフランス人同士の対立が続いた。44年8月25日に連合国によって解放されるまでの4年間はパリ市民の人心がすさむのに十分な時間だった。
photo03 「アトリエ」1947年
 フランスは「戦勝国」の名称に反し、国土は荒廃し、人々は窮乏していた。戦後の喪失感に苦しむ人々にとって、ビュフェが47年に描いた「アトリエ」のような無機質な部屋、窓外の灰色の空、モノクロの色調と黒くはっきりとした輪郭線で描かれた無表情の人々といった「虚無感」をにおわせる様式は「戦後の時代の空気を切り取り描いたものとして共感を呼んだ」(同館・雨宮千嘉学芸員)。以後、約10年の間にビュフェは時代のシンボルとなり、私生活が写真誌をにぎわす「スーパースター」のような人気を博したという。
 58年にパリ・シャルパンティエ画廊で開かれた「100点の絵画―1944~58年」展は初日に8千人、会期全体で10万人を超す観覧者を集めた。当時29歳だったビュフェは、社会現象とも言える人気を得たが、代わりに美術界からの軽蔑と嫌悪を受けることになっていった。
photo03 「ロールス・ロイス」1956年
 56年作「ロールス・ロイス」に描いたような英国の高級車を所有し、58年には当時の時代のアイコンでもあったモデル兼歌手のアナベルと結婚。大衆人気を極め、富を手中にし、幸せを享受する姿は商業主義に堕したとみなされた。また、戦後という時代が遠くなり、ビュフェの選ぶモチーフと美術界が求めるビュフェ像に差異が生じ始め、それまでビュフェを支援していたパリの美術関係者は裏切りと捉えた。パリの美術館から排除され、フランス人でありながら個展の開催地は摩天楼を描いたこともある米・ニューヨークなど国外中心となった。
 美術界が嫌悪したように、ビュフェは本当に変節したのか。雨宮学芸員は「戦後の一時期あまりに時代と作品がかみ合ってしまっただけで、ビュフェは最初から自分のスタイルを貫いている」と指摘する。
photo03 「ドン・キホーテ、鳥と洞穴」1988年
 88年の大作「ドン・キホーテ、鳥と洞穴」でも鋭い線と人間の描き方は40年代に激賞されたビュフェ様式を維持している。死の間際に描いた99年作「死16」は、パーキンソン病によって手が不自由になりながらも鋭い直線を追い求めるビュフェの作風への執念をうかがわせる。
photo03 「死16」1999年
 同館の井島真知学芸員は「ビュフェはいつも変わらず、時代が潮のようにビュフェに近づいたり離れたりしていただけではないか」と話した。
 (教育文化部・マコーリー碧水)
開館50周年記念展「ベルナール・ビュフェ 偉才の行方」  ■会期
 11月24日まで。水、木曜は休館。祝日の場合は開館し、金曜を休館
 ■会場
 ベルナール・ビュフェ美術館
 (長泉町東野クレマチスの丘515の57)<電055(986)1300>
 ■開館時間
 2月は午前10時~午後4時半、3~11月は午前10時~午後5時(最終入館は閉館の30分前)
 ■入館料
 大人1500円(20人以上の団体1400円)、高校・大学生750円(同650円)、中学生以下無料

 主催 ベルナール・ビュフェ美術館、静岡新聞社・静岡放送
 特別協賛 スルガ銀行

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