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「島田事件」赤堀さん死去 死刑廃止や適正捜査願う 配慮と感謝、優しい人柄

 1954年に島田市内で幼女が殺害された「島田事件」で死刑確定後に再審無罪となり、22日に94歳で死去した赤堀政夫さんは、死刑制度の廃止や違法捜査、障害者差別の根絶を晩年まで願い続けた。一方、周囲への配慮と感謝を絶やさない優しい人柄で知られた。

2015年に初めて袴田巌さんに対面した赤堀政夫さん(左)。死刑制度の廃止や違法捜査の根絶を願い続けた=浜松市内
2015年に初めて袴田巌さんに対面した赤堀政夫さん(左)。死刑制度の廃止や違法捜査の根絶を願い続けた=浜松市内

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 「皆さん、どうもありがとう」。89年1月31日、静岡地裁で再審無罪判決が言い渡されて釈放された赤堀さんは、地裁前で右拳を突き上げ、集まった支援者に生還をアピールした。35年ぶりに自由の身となった。
 冤罪(えんざい)ながら死と隣り合わせだった日々の記憶はいつまでも鮮明だった。「35年と口で言うのは簡単だよ。でも、本当に長い。無実の人を殺していい法律なんて、どこにもない」。2012年には裁判員候補者に選ばれたが、司法への不信から辞退した。
 別件で逮捕し、自白を強要した警察官らへの怒りも消えなかった。「こちらの言い分は全然聞いてくれない。調書が無理やり作られた」。死刑確定後の執行への恐怖、先が見えない孤独を支えてくれたのは支援者だった。「応援してくれる人がいっぱいいてくれたのが大きい」と振り返った。
 袴田巌さん(87)の再審開始も支援。15年には釈放されていた袴田さんを浜松市の自宅に訪ねた。袴田さんの姉ひで子さん(91)は「残念。100歳まで生きてほしかった」と悼んだ。
 プライベートではカラオケを好んだ赤堀さん。最晩年まで付き添っていた支援者の一人は「『体に気をつけて』といつも気遣ってくれた」と懐かしむ。
 赤堀さんの弁護団員だった河村正史弁護士は「ご苦労さまでしたと伝えたい」としのぶ。弁護団に加わったことで学びも多かったという。他方で、当時から不備が指摘されていた再審法(刑事訴訟法の再審規定)は赤堀さんの再審無罪以降も改正されないままで「国会の怠慢だ」と指摘する。
 支援団体「島田事件対策協議会」の事務局長を務めた森源さんの長男で島田市議の伸一さん(76)は「高齢のため覚悟していたが、袴田さんが再審無罪を勝ち取る前に亡くなったことはとても残念。事件は風化しかけているが、冤罪は今なお起きていることを忘れてはいけない」と強調した。
 後日、お別れの会を開くことなどを検討中という。
 (社会部・佐藤章弘、島田支局・寺田将人)

 島田事件 1954年3月10日、島田市内の幼稚園から女児=当時(6)=が行方不明になり、3日後に雑木林で遺体で発見された事件。当時25歳の赤堀政夫さんは別件で逮捕された後、女児の殺害を「自白」し、静岡地検は殺人罪などで起訴した。赤堀さんは一審静岡地裁の初公判から自白を強要されたとして無罪を主張したが、地裁は58年に死刑判決を宣告し、最高裁で確定。その後、4度にわたる再審請求を経て再審公判が始まり、地裁は89年に無罪を言い渡した。免田、財田川、松山に続く戦後の「四大死刑冤罪(えんざい)事件」の一つ。

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