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家康の御遺訓は「後世の創作」 明治以降、各地に流布【今さら聞けない 徳川家康⑧「人の一生は重荷を負て」】

 「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し」で始まる徳川家康の言葉は、「東照公御遺訓」として日本各地の東照宮内に残っている。静岡県内では静岡市葵区の駿府城公園内の石碑にも刻まれている。学校教育で活用され、書道の題材として採用されることも。歴史ドラマに登場したり土産物に書かれていたりもする。だが家康はいつ、どこで、誰に向かってこの言葉を残したのか。征夷大将軍の遺訓という重要事項を誰が書き留め、世に広めたのか。その謎に迫った。
駿府城公園内の東照公御遺訓碑=静岡市葵区
 家康をまつる同市駿河区の久能山東照宮のウェブサイトには「御遺訓に示された人生訓は、まさにその御生涯から生まれたものであり、徳川家康公の御精神そのものであると言えるでしょう」とあるが、原典の記載はない。また、各地の御遺訓を見比べると、表記が統一されていない。「人の一生」を「人乃一生」と書いたり、「いかり」が漢字の「怒」だったり、「望おこらば」に送り仮名がついて「望みおこらば」になっていたり。
 例えば久能山東照宮は家康の霊廟[れいびょう]であり、駿府城公園の石碑を揮毫[きごう]したのは徳川宗家18代当主の徳川恒孝氏(84)である。両者とも神君とあがめられた徳川家康の遺訓を書く際には一語一句、原典を尊重するであろう縁のある立場だ。なぜ表記の不統一が発生するのか。
御遺訓を染め抜いたお土産グッズの手ぬぐい=静岡市清水区の日本平月日星
 静岡市歴史博物館の鈴木将典学芸員によると「原典が存在しないため食い違いが発生する。長く家康公の言葉と信じられてきたが、近年、後世の創作と分かってきた」。「東照公御遺訓」は、神格化された徳川家康が語る形を取った創作の道徳訓であり、誰にいつ言ったかという背景は存在しないという。
 鈴木学芸員は「我慢強く質素倹約のようなイメージはだいたい後世の創作によるもの。史書から読み取れる家康は結構派手好きで怒りっぽい」と話す。東照宮信仰の中心地の一つ日光東照宮(栃木県)に確認しても「明治時代あちこちに流布された創作物と認識している。漢字の食い違いなどはそのため」との回答。「それでも中身は家康公にふさわしい言葉。今後も伝えていく」(山作良之総務部長)という。
 日光東照宮によると「東照公御遺訓」を後世の創作と実証したのは徳川御三家の筆頭、尾張徳川家21代当主の徳川義宣氏(1933~2005年)だった。義宣氏の研究では、御遺訓の元と推察されるのは水戸藩第2代藩主徳川光圀(水戸光圀)の遺言と伝わる「人のいましめ」という一文。一部を改変して幕末以降に幕臣の手によって各地に流布されたという。
パッケージに御遺訓をあしらったお菓子=静岡市清水区の日本平ロープウェイ日本平駅
 だがここで新たな謎も。茨城県立歴史館は最後の将軍徳川慶喜が静岡隠居時代に直筆したとみられる「東照公御遺訓」を所蔵している。慶喜は一橋家を養子として相続したが、元は水戸藩主徳川斉昭の子息だ。御遺訓が流布された時期と同じ時代を生き、まして水戸藩で育ち宗家を継いだ慶喜なら、御遺訓が先祖伝来ではない創作と気づけたのではないだろうか。あるいは気づいた上で揮毫したのか。
 「東照公御遺訓」は後世の創作であり、神君家康が語り残したありがたいお言葉というストーリーは架空のものだろう。静岡市歴史博物館の鈴木学芸員は「家康に限らず、有名武将の言葉や逸話は軍記物などで広まった創作が大半」と指摘する。しかし、この遺訓を「家康の人生を表すのにふさわしい」と考える人や、人生の糧とした人、後世に教え伝えようと石碑を残した人々は確かに実在する。
 土産物屋には御遺訓を書いたグッズが並び、家康由縁として買い求める人がいる。史実の徳川家康という個人から離れ、みんなの考える「徳川家康」を象徴する言葉、「徳川家康」に言ってほしい言葉として、「東照公御遺訓」はこれからも長く親しまれていくのだろう。
 (教育文化部・マコーリー碧水)

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