父建てた慰霊塔、存続に影 ビルマ戦線の戦没者へ思い 維持に負担、担い手高齢化
「壊すのにも1千万円。管理する側も高齢化している」。茨城県常総市の会社事務所。経営する稲葉修一さん(72)は、近くにある慰霊のパゴダ(仏塔)の過去から現在に至る写真を見つめ、沈痛な表情を浮かべた。太平洋戦争中、旧日本軍が惨敗した「インパール作戦」など、ビルマ戦線の戦没者を思い、帰還兵だった父茂さん=2013年死去=が建てたが、老朽化で維持が困難に。父の思いを継ぎたい気持ちと、現実の負担とのはざまで、心は揺れている。
鬼怒川沿いの静かな砂丘林の中に、そっとたたずむ「鬼怒砂丘慰霊塔」。ミャンマーにゆかりの深い仏教建築パゴダを模し、高さは約20メートルある。
1944年3~7月に、ビルマ(現ミャンマー)を占領した旧日本軍が、英領だったインドのインパールを攻略するため、300キロ超を行軍しようとする作戦を決行した。英軍との戦力差に加え、日本軍の補給軽視で、飢えや感染症に苦しみ惨敗。撤退戦でも犠牲者が増え、ミャンマーでは13万人以上の日本人が亡くなったとされる。
修一さんによると、茂さんは作戦中止後の撤退戦で応援に入った。食料は尽き、逃げ惑う状況でも、上官は突撃を命令し続けたという。「塩を草にかけて食べたり、尿を飲んだりした」と茂さんはよく振り返っていた。
故郷の石下町(現常総市)からビルマ戦線に出征した130人以上のうち、生き残ったのは十数人だったとされる。茂さんは「託された使命がある」と戦友供養のために89年、塔を建立。毎年5月には全国から遺族が集まり慰霊祭を開いた。
修一さんは戦争を直接体験した世代ではないが、熱心に動く父の背中を見続け、また他の帰還兵の思いに触れ「せめて自分が死ぬまでは、継いでやらないと人として恥ずかしい」と感じ始めた。
茂さんの死後、塔を引き継ぎ、地元小学校での語り部や慰霊祭を続けてきた。だが、2011年の東日本大震災で塔に入った亀裂が、ずっと気がかりだった。「倒壊した時、責任を取れるのか」
やむにやまれず、特徴的な黄金の先端部を、21年に1千万円かけ取り外した。遺族の高齢化に新型コロナウイルス禍も重なり、22年の慰霊祭は身内だけで開催。「徐々に負担も大きくなる。家族でひっそりやっていくしかねえか」。今後への不安が暗い声ににじむ。
塔には、茂さんが戦時に助けられた現地住民への感謝も込められている。慰霊祭には駐日ミャンマー大使を招き、現地の子どもに文房具を贈るなど、交流も続けてきた。
“戦争を忘れることは、新しい戦争を生むことになる”。塔に刻まれた父の建立の決意を思い、修一さんは願う。「現実は厳しいが、今後も父の思いを伝えていきたい」