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核密約、米側意図を了承 日本政府、圧力かわせず 安保改定で新たな経緯判明

 核兵器を搭載した米軍艦船・軍用機の日本への寄港や着陸を日米間の事前協議なしで認める核密約が1959年、秘密交渉を経て成立する新たな経緯が16日、米公文書から判明した。米国は60年の日米安全保障条約改定後も核艦船寄港の自由を死守しようと交渉を主導し、この点を非公開文書で確認するよう要求。日本は当初反対したが米国の強硬姿勢をかわせず、米側の意図を了承した上で文書作成に応じていた。
1960年1月6日、外務省でマッカーサー駐日米大使(左)を迎える藤山愛一郎外相。この後、2人は米軍核搭載艦船の寄港を可能にする「討議の記録」に署名した。
 核密約は旧民主党政権下の2010年、日本政府が存在を認めた。ただ根拠となった外務省調査でも一連の経緯は解明されず、初めて全容が分かった。冷戦後、米軍核艦船は日本に寄港していないが、日米は今も密約を正式に破棄していない。
 米公文書は信夫隆司・日本大名誉教授が国家安全保障公文書館(ワシントン)から入手した。
 米国務省は1958年9月29日付公電でマッカーサー駐日大使に、安保改定で新設される事前協議の対象は核の陸上配備に限られ「(既に行われている)核搭載艦船の日本領海・港湾への進入は従来通り続け、対象としない」との交渉方針を伝達。事前協議は旧安保条約で制限のなかった日本への核持ち込みに対し、日本の発言権確保を狙った安保改定の目玉だった。
 これを受け大使は同10月4日、岸信介首相と藤山愛一郎外相に会い「米軍艦船の日本領海・港湾への進入を含む現行の手続きは(安保改定後も)継続される」と伝えた。
 59年4月9日付公電によると、藤山外相は米軍艦船寄港など「現行の手続き」を事前協議の対象外とする米側要求を口頭で了解。5月に入ると大使は日本の後継政権も拘束しようと、この了解事項を明記した非公開文書の作成を提案した。
日米核密約を巡る経緯
 しかし同6月9日、将来の国会追及を恐れて文書化に後ろ向きの外相は「(協議対象は)核のイントロダクション(持ち込み)のみ」と記すにとどめるよう逆提案するが、核艦船寄港継続を確実にしたい大使は「全く受け入れられない」と拒絶、米案受諾を改めて求めた。それでも外相は賛同せず大使は「再考を迫った」(同11日付公電)。
 大使は同10日、山田久就外務事務次官と妥協案を模索。最終的に艦船寄港を事前協議の対象外とする「討議の記録」という文書に外相も同意し、翌年1月にイニシャルで署名。米国の思惑通りとなった。

 驚きの発見、再研究を
 中島琢磨・九州大教授(日本政治外交史)の話 驚きの発見だ。安保改定時に日米は「討議の記録」という非公開文書を作ったが、藤山愛一郎外相が「現行の手続き」という言葉の明記に反対し、削除を求めていた経緯が初めて明らかになった。
 米国は将来も核搭載艦船を日本に寄港させるため、艦船寄港を巡る「現行の手続き」に変更がないとの一文を「討議の記録」に盛り込んだ。外相は交渉中「艦船に積む兵器の種類を明かさない」との米軍の考え方を聞かされており、この一文が核艦船寄港を認める意味になると気付き文書化を嫌ったのではないか。
 法的に国家の意思を代表できる立場の外相が米側の文意を認識した上で反対し、最後に合意していたなら、その意味は大きい。密約再研究の必要性を示しており他の関連文書公開が求められる。

 日米核密約 1960年の日米安全保障条約改定で日本への核持ち込みは日米間の事前協議の対象と定められたが、米軍核搭載艦船・軍用機の日本への進入を対象外とした秘密合意。米軍記録によると、53年の核搭載空母の横須賀(神奈川)入港以来、核艦船の日本寄港が常態化。冷戦後、核艦船寄港はなくなり、2009~10年に旧民主党政権が調査を行い、密約があったと認めた。ただ密約の形成時期を巡り「討議の記録」が署名された安保改定時とする学説や、60年代を通じ段階的に成立したとの学説があり、見解が分かれる。外務省の有識者委員会は後者の見方を取った。

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