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「大変な1年だった」クマと戦い続けた20代のマタギが語る「異常」 背景にあるのは人間の問題「それだけ自然から遠のいたということ」

 気温マイナス4度。一面の雪の中、猟銃を肩に掛けた益田光さん(29)が足元を指さした。「これはタヌキの足跡。こっちはテンですね」

山を見回るマタギの益田光さん=23年12月21日午前、秋田県北秋田市
山を見回るマタギの益田光さん=23年12月21日午前、秋田県北秋田市
猟銃を構えるマタギの益田光さん。この日クマは出なかったが、狙い撃つ様子を実演してくれた=23年12月21日、秋田県北秋田市
猟銃を構えるマタギの益田光さん。この日クマは出なかったが、狙い撃つ様子を実演してくれた=23年12月21日、秋田県北秋田市
山を見るマタギの益田光さん=23年12月21日午前、秋田県北秋田市
山を見るマタギの益田光さん=23年12月21日午前、秋田県北秋田市
打当地区までの距離を示す案内標識=23年12月21日午後、秋田県北秋田市
打当地区までの距離を示す案内標識=23年12月21日午後、秋田県北秋田市
1943年(昭和18年)ごろのマタギ=秋田県鹿角市(マタギの里観光開発株式会社提供)
1943年(昭和18年)ごろのマタギ=秋田県鹿角市(マタギの里観光開発株式会社提供)
秋田県が設置した監視カメラに映ったクマ=2023年10月1日午前、鹿角市(秋田県自然保護課提供)
秋田県が設置した監視カメラに映ったクマ=2023年10月1日午前、鹿角市(秋田県自然保護課提供)
山を見回るマタギの益田光さん=23年12月21日午前、秋田県北秋田市
猟銃を構えるマタギの益田光さん。この日クマは出なかったが、狙い撃つ様子を実演してくれた=23年12月21日、秋田県北秋田市
山を見るマタギの益田光さん=23年12月21日午前、秋田県北秋田市
打当地区までの距離を示す案内標識=23年12月21日午後、秋田県北秋田市
1943年(昭和18年)ごろのマタギ=秋田県鹿角市(マタギの里観光開発株式会社提供)
秋田県が設置した監視カメラに映ったクマ=2023年10月1日午前、鹿角市(秋田県自然保護課提供)

 益田さんはマタギだ。ここ秋田県北秋田市阿仁地区は映画「マタギ」(1982年、後藤俊夫監督)などの舞台にもなった、日本を代表するマタギの里。周囲を山に囲まれ、クマの数が多く、かつては200人ものマタギがいたと言われる。
 山の見回りに同行させてもらったが、簡単ではない。カメラを持つ手は震え、ブーツが雪に埋まる。先導する益田さんは「まだまだ全然、暖かいですよ」と笑い、スギの木に囲まれた斜面を軽々と登っていく。
 数百メートル歩いたところで、スギとブナの林が交わる地点に差しかかった。益田さんが振り向き、口元に人さし指を当てる。
 「念のためここは静かに。クマがいるかもしれないから」
 ブナの実はクマの好物で、くぼみなど身を隠してえさが食べられる場所にいることがあるという。山中を約1時間パトロールしたが、この日は姿や痕跡が見つからなかった。
 益田さんの出身は秋田ではなく、広島県。この地区には5年前に移住し、マタギになった。20代の若者が、クマと戦う過酷な生き方をなぜ選んだのか。(共同通信=斉藤林昌)
 ▽阿仁での出会い
 きっかけは、東京農大で林業を学んでいた2014年だった。益田さんが父と一緒に秋田県を旅した際、現地で会った父の知人が「林学をしているなら阿仁マタギに会ってみないか」と紹介してくれた。翌日さっそく会い、2人きりで2時間話し込んだ。最初は怖い印象で、言葉もなまりが強くてよく分からなかったが、最後は笑顔で送り出してくれたのが印象的だった。
 元々、森と隣り合わせの環境で暮らしたいと考えていた。そんな中での阿仁マタギとの対面。「この瞬間にぴんときた」。5年後の2019年、秋田県に移住してマタギへの一歩を踏み出した。
 ▽兼業マタギ
 昔のマタギは狩った獲物を売ることで生計を立てていた。クマの肉や毛皮、内臓は余すところなく生かし、中でも「くまのい」と呼ばれる胆のうは貴重な薬品として高額で取引されていた。かつて阿仁地区では、マタギでなければ生計を立てられなかったという。
 ただ、時代とともにクマの肉や内臓の需要は減少。現代のマタギは猟友会の一員として行政と連携し、人里の人身被害や食害を未然に防ぐ役割も大きい。自治体から日当は出るものの生計を立てられるほどではなく、公務員や会社員の傍らで活動する「兼業マタギ」がほとんどだ。
 益田さんは「駆除はあくまで最終手段」と話す。人里にさえ出てこなければ駆除する必要はないからだ。平時なら巡回でクマを見つけると、まずは車のクラクションなど大きな音で追い払って山から下りてこないようにしている。いざ駆除するとなっても、動いている個体を鉄砲で狙い撃つことはほとんどなく、大半はわなを仕掛けて捕獲し、人間が安全な状態で鉄砲を使う。ただし猟期と定められた冬には、山で「巻き狩り」と呼ばれる昔ながらの集団狩猟も続けている。
 益田さんはこう強調する。
 「時代が変わっても『クマと戦える人間』というマタギの役割は変わらない」
 住民からの信頼は大きな誇りになっている。
 ▽クマの警戒心が緩んだ
 阿仁地区は現在、マタギが40人弱まで減った。益田さんが住む打当集落はたった5人だ。平均年齢も高く、1人当たりの負担は大きい。
 特に去年は全国でクマの出没が相次ぎ、人里に現れる「アーバンベア」も多かった。秋田県では全国最悪となる70件の人身被害が発生。県は有害駆除を推進し、去年だけで推定生息数の半分に当たる約2200頭が駆除された。
 益田さんは「本当に大変な1年だった」と振り返る。早朝と夕方にえさ場や目撃された場所を巡回し、クマを見たらおりを設置して捕らえ、駆除した数時間後に別の個体を駆除した日もあった。
 本来クマは臆病で、人間がいると分かれば逃げる。だが去年は何度追い払っても出てきた。益田さんが考える原因の一つがエサ不足だ。豊作だったおととしから一転し、昨年はブナの実が大凶作で山にエサがなかったため「クマも人里に出ざるを得なかったのだろう」。
 クマの警戒心が緩んでいる可能性も考えられるという。以前は山で行われていた炭焼きや牛馬放牧がなくなり、今は「人間がエリアを明け渡した状態」。クマの生息域は広がる一方で、あまり人間と接することはないため恐怖を感じず人里に降りてコメやカキを食べるというわけだ。
 ▽人と自然
 益田さんは、人里に慣れたクマが来年以降も出没し続ける可能性を危惧している。それを防ぐためにも、本来ならマタギは毎日でも山を歩き、木の実の付き具合など山中の状況を把握しておくべきだという。ベテランから学んで一人前になるのにも時間がかかる。ただ公務員や会社員との兼業では難しく、益田さん自身も秋田に来た当初は林業の事業体で働いていたが、マタギの活動を重視して個人事業主になった。
 現在は「もりごもり」の屋号でクロモジという植物からお茶を作っている。「山のめぐみから収入を得て、また山に行く」というマタギらしいライフスタイルを実践することで「本業マタギ」の復活を夢見る。
 そしてマタギに限らず、人と自然の関わりを取り戻すのが大事だと強調する。よく使われる「自然との共生」という言葉は、益田さんに言わせれば当たり前のこと。
 「それが価値を持ってしまうほど人が自然から遠のいてしまった」
 昨年、クマのニュースが大きく扱われたのも「クマは元からいるのに見えていないだけ。僕らにとっては日常です。共生はもうしているんですよ」と言い切る。移住希望者のコーディネーターも務める益田さんは、最後にこう言って笑った。「悩める若者は阿仁に来ればいい。天気が良ければ釣りに行き、雨の日は家で酒を飲みながら本を読む。自分の中の何かが大きく変わると思いますよ」

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